自立型であるよりない

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


と、そういう気分を個人的には持つわけだが、北米土壌としてはNew Yearというのはあまりおめでたい感じはしない。持論だが、北米および欧米はクリスマスのタイミングで(ギリシアロシア正教のひとは別カレンダーのクリスマスで)、日本は新年で(チャイニーズは彼らのカレンダーで)、要するに冬至を超えてターンしているということなんだろうと思う。だから、そのターニングポイントまでは、そわそわして、それが過ぎたら、はいおしまいとなるんだろう。そわそわしている、というのはおそらく暗くなっていくことへの不安なんだろうと思う。終わっちゃう、みたいな。


だから、北米におけるNew Yearのタイミングは余計。同様に日本におけるクリスマスは余計。だから、彼と二人っきりで過ごすクリスマス、みたいな、マジのクリスチャンが聞いたら卒倒しそうなクリスマスの行事が定例化しているんだろう。そうやって本旨とは関係のない、かなり商業的な意味づけをしていると。


もちろん、北米のクリスマスにも商業的な味付けは多くあるわけで、ヨーロッパ大陸に根の深い人たちは、クリスマス=買い物としか思ってないやにみえるアメリカ大陸の人々を、この時期毎年(あきもせず)こきおろす。彼らにすると、これは家族が伝統に従って集う時であって、プレゼント交換は付録だ、パーティーでふざける時じゃないんだ、と。しかしながら、彼らが自分たちのやり方をクリスチャンの本義と考えている風なのは誤りとも言える。キリスト教教会は過去にはクリスマス行事を禁止したりしていたわけで、現代の姿は歴史的な妥協の産物なんだろうな、というところだから。


結局のところ、まったく明らかに、世界中で、何人を問わず、一年のターンを寿ぐ心理は過去にあり、今にあり、今後もありそうだ、この強さはなんでしょう、という点にフォーカスを絞って観察すると興味深いのではないのかなど思う。

 日本の目指す進路?


と、なにごとによらず陰極まれば陽がきざすはずなのだが、陰のままでいるような感じがするのは日本のメディアか、など思ってみたりする。


単純にいって、こういう設問の仕方が誤りなのではなかろうかと私は思う。

「一億総中流」時代は終わり、格差が広がりつつあります。効率追求の競争はますます激しく、会社も人も「勝ち組」「負け組」にはっきり分かれようとしています。自殺は毎年3万人以上、生活保護は100万世帯を超すという現実が私たちの眼前にあります。これが「頑張れば報われる」新しい社会像なのか。それともセーフティーネット重視の相互扶助型の社会を選ぶのか−−。海外にも目を向け、日本の目指すべき針路を読者とともに考えます。

縦並び社会・格差の現場から:アンケートと連携の新連載 29日夜開始
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/tatenarabi/news/20051228org00m040064000c.html



まず、格差が広がりつつある、というけど、それは本当か? 格差は常にあった。なくなったのは、「一億総中流」という幻想のようなスローガンのようなことを言っていても誰も文句を言うチャンスがなかった時代ではないのかいな。つまり、新聞を中心に、「みんな」が同じようなことを考えたり、同じような生活をしているような前提に立ってものを考え、言論を編む時代が終わったということじゃないのかいなということ。とどのつまり、言論関係者の言論の前提が壊れた、というのがこうした言辞をはきたくなる中心的なモチベーションではないのか。


なんのかんのといって昔から、人々は個々の生活を個々の責任で営んでいるものだ。


格差という点でいうのなら、「効率追求の競争はますます激しく、」ということを、どういう意味で書いているのか知らないが、動き、開発、上昇といった点を閉ざそうとすると、最終的には、相続型の社会にドライブがかかるから、より深刻な格差拡大社会になる。個人が一生に稼ぐ分の大きさに関しての可能値が小さくなれば、財産相続者しか「勝ち組」になれなくなる。(何を視点に勝ち負けを言うかという問題はこの場合は捨象。毎日が言うような金額ベースのことを念頭におく)

競争はますます激しい、だから格差が広がった、という因果関係は、私にはおかしなものにしかみえない。
競争が可能であるから、生まれた時に、財産持ちではなかった人にも、相応の上昇機会がある、ってことざましょ。もちろん、それでもそうはなれないということもあるわけだが、だからといって、上昇機会のあることがそうはなれなかった理由だ、というのは論理的でない。1)



アメリカのモデルでいえば、つまらないつまらないと言われる中西部あるいは郊外は結局のところ、自分で稼いで自分で家を買ってというモデルがまだ生きているところである一方、サンフランシスコなどは典型的な、相続者とそれ以外になっている街となる。どっちが好きかは、それこそ個人の自由であって、いやなら移れがアメリカ。「日本の目指すべき針路を読者とともに考え」るという考え方で、全員の進路を考えるべきだとはアメリカ的でない何者かだといってどこかから苦情の来る気配はない。機会を求めて移ることを奨励する人はあっても、機会を求めずその場で個人のではなく「全体の進路」を考えることが奨励されることはない。


で、アメリカを極端な自由貿易主義万歳社会と考えた場合、日本との大きな差異は、本拠地から絶対に移らないというある種のコンセンサスかな匹箸盡?┐襦I秡津鼠茲涼呂鯲イ譴覆ぁ△澆燭い福


しかし実際にはこれは嘘か思い過ごしにすぎないわけで、明治以来(あるいはもっとずっとその昔から)人々は東京、大阪、名古屋などの大都市に移住しつつ生活してきた。食えなかったからだといってもいいし、大志を抱いたからだといってもいい。そして、その中で、移るのも自由、移らないのも自由、移ったからといって幸せとも限らず、移らなかったからといって幸せであるとも限らない。なにより何を幸せと思うかはそれぞれ個人に依存するのだからというのがコンセンサスとなっていったと言えるだろう。




ということは、今になって、機会追求型、つまり、競争歓迎型の社会を新しいことのように言うのは、事実に則してはいない。新聞屋がまた自説を述べるために勝手な前提を作ったな、など思っていればいいのではあるまいか。「これが「頑張れば報われる」新しい社会像なのか。」(前掲)、って、新しくないんだってば。2)


で、要するに、団塊だかなんだか知らないが、そうやって競争してきた世代が保身に回った時、全員がハッピーとも言えなくなってる、さあどうしましょうということなんだろうかなどと見える。全員に潤沢な年金資金がないじゃないか、さてどうやってそれをまかなうか。それは結局、保険徴収式という自由・競争社会型によりフレンドリーな方法ではなく、強制徴収型の、社会保障ではなく、社会福祉にしちゃおう、そうしたら俺ら安泰だ、と。


1) アメリカの社会はますます「格差」が広がるだろう、なぜなら、金持ち白人(いわゆるヤッピー)は同じような相手と結婚するから、といったことを言う人もいる。

でもって、一昨年の「反ブッシュ」キャンペーンがどこか不発に終わった1つの小さいがしかし小さくない要因の1つには、もしかしたら、大金持ちの女性と結婚して財産を構築しているケリーという人が最前線でかもしていたものもあるかもしれない。あんた、究極の、反・自助努力じゃんかよ、と。



2) 手もとに簡単に取り出せたものなので付録として。アメリカのざっくりしたデータだが、
格差が広がって貧しい人がより貧しくなっていくという「ムード」があるが、アメリカの貧困率は1950年において22%、現在のそれは12%だそうだ。

 お金持ちの心配はしないことにする


無保険者:全国30万世帯以上 国保料滞納で保険証使えず
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060104k0000m040038000c.html


この記事は、このタイトルだけを見ると、滞納しているから保険証を交付されない、それはつまりお金がないから医者にかかれない人のことか、と思いがちかと思うのだが、これはそういう人数なんだろうか?

国民健康保険被保険者資格証明書の略。原則として、納付能力があるのに国保料を1年以上滞納した被保険者に、保険証の返還又は期限切れと同時に区市町村が交付する。被保険者としての「資格」はあるが、国保の「受益権」は停止し治療費は全額自己負担になる。国保料の滞納対策の一つとして00年度から国民健康保険法で交付が義務づけられた。


証明書を交付された人の収入および資産状況がわからない以上なんともいえないが、中には、医療費をプライベートにまかなうことを選択している人もいるのではあるまいか? 「納付能力があるのに」なんだから。逆に納付能力がないことを申し立てた場合には、よほどの不正でもない限り、公的扶助の対象となるだろう。


ということはこの数値は何を問題にしているのだろう? 
払えない悲惨な人が増えている、という印象を作ろうとしているのか?
で、悲惨な人が増えているから、現行の保険料徴収型は間違いで、社会福祉型にするしかない、という結論を導きたいということか?



現行の保健医療制度に問題があることは事実だとして、しかし、その解決法の先の方に、社会福祉型、つまり税金一括方式で分配する仕組みを持ってくることは、現在でいえばデメリットの方が大きいんじゃまいかと思うんで、私としてはこの件は今年はクロスウォッチしようと思う。


なんでそう思うかといえば、日本って、資源は国民の勤勉さと想像力刺激型の開発経済指向というより嗜好みたいでさえある、このメンタリティーしかないと思うから。もっというのなら、ごねたり脅したり、泣きついたり、世界に向かって我が身の不幸を嘆くとか等々、要するに他国から支援を得ることができない立場にある以上、自立型であり続けるモデルを追求しなくなったら、それこそ日本の終わりになるんだろうななどとも思う。


社会政策にユニバーサルな解決法などなく、その国の国民の勤労道徳、つまり日々をどう捉えるかという根本的なものの考え方に適したものが取られるとき、うまく機能する、というものだと思う。


そして自身の努力を基本とする仕組みを構築し、修正しつつ構築してゆくことは、まわりで支えてくれた人のことを忘れずに、しかしながら最後に頼りになるのは自分です、とか、苦しくとも神に祈らず(ご利益期待で神社仏閣は尋ねるにせよ話半分、みたいな)、といった言辞が支持される土壌に合っているだろうと私は思う。

 年寄りメディアを無視する思考習慣


で、上のように考えてきた時、日本に今ある不幸のうちで最も不幸なものは、大メディアがおしなべて、それ自体として自主的にイデオロギー主導型だという点だろうと思う。といってもぐじゃぐじゃなんだが、日本にある問題を数値から並べて、あるいは知見とインサイトを併合して仮説をたてたり検証しているというよりは、どっかの集会でこうあらねばならないと決まったらその線で書いてしまう、という方に見える、という傾向が強いこと。で、その集会でどんなことが語られているのかは闇の中、と。


それを押し返すためには、つまり、そこに飲まれないためには、ソースとしてのニュース以上のものを受け取らない思考習慣を構築することが大事。これは昨年度でほぼ達成されたような気はするが今後も継続だろう。


でもって、イデオロギー礼賛型であることと同じぐらい、日本の大メディア論調を避けて生きた方が個人にとっては幸いだろうと私が考えるもう一つの意味は、大メディアを主導している人が、「年を取っている」こと。


実際には、書いている人はおしなべて若いんだろうなとは思う。読んでて、ああこの人はこれもあれも見当がついていないんだろうなと、中年になった私から見てそう思えるケースが多いことから考えてもそうなんだろうと思う。が、それら若い人は、古い人に頭を作られている。少なくともそうでないと会社にいられない仕組みだからそう書いてとく、ということかもしれないが、なんせ頭を牛耳られている。


この大きな例は、なんといっても筑紫哲也氏だろうか。今では笑いネタにしかならないこのおじいさんだが、このおじいさんの「危険性」は、もっと早くに気付いてもよかったのだななど思う。


私はこの「危険性」を、このおじいさんと同じぐらいにおばあさんである私の母親に指摘された。もう7、8年ぐらい前だろうか。


母は、いわゆる戦後民主主義の申し子のようなおばちゃんなので、基本的には筑紫風論説に抵抗はないどころか、賛成だわ、とならなければならないはずの部分を多く持っているのだが、実際には非常に苦々しく思っていた様子で、ある日一緒にテレビを見ていた時、母は、意を決したように、「この人はもうやめるべきだし、出てくるべきでない」と言い出した。


母によれば、この人はこの人で若い時に考えたことや今でもそれが正しいと思っていることがあるのだろう、しかし、今それがそうなってはいない。この時、この人はそれを「嘆いている」。これは年寄りには多くありがちだ。しかし、もっと若い人、もっと遅く生まれた人は、嘆いている場合ではなくて、どういう問題であれ解決しなければならない。ぼやいて足りるなら、それはもう十分にぼやくことが役割となっていてもいいような生き方を獲得しているからだ、と。


だからそういうことは、同じようにぼやいて足りる老人たちとやればいいんであって、それを公共の電波で、毎晩毎晩発信しているのは害だと言うのだった。(言うまでもないが、年を取っていることとボヤキ好きは重ならない)


上の毎日新聞のリードを見た時、これを思い出した。