公共空間と自宅

子どもの日だぁと思うものの、こちらは特にそういう区切りでもないので平常通りの火曜日。気温は日中15度、夜間予想7度。このぐらいならいいな。私は今日はシャツに革ジャンで外を歩いていたのだが、ふと見ると明らかにそれは麻ですね、というスカートに綿の薄手のジャケットに素足にサンダル履きのおばさんがいた。寒いと思うんだがなぁ。白人の体感気温だけはついにわからん。といってもじゃあ白人ならみんなそうかといえばそういうものでもなくて、そういう寒い時に薄着の人を見るたび、クレイジーだと叫ぶ寒がりまたは用心深い白い人ってのも当然いる。


インフルエンザがらみが気になるところだが、日本の報道がもっと気になる。

姉と帰国した京都市南区の会社員★★さん(35)は「日本では新型インフルエンザが騒ぎになっているけど、米国ではマスクをしているのは日本人ぐらい。特に心配してない」と冷静に話した。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009050602000086.html


代表例として例えばこういうコメント。★にしたのは記事内では名前があげられていたけど、特に晒したい意図はないので私が★にしました。


「むこう」ではXXなのに、日本は違うとなると、なぜだか無条件に「むこう」に基準をあわせる人がいるというのはある種の日本のお家芸なんだけど、こういうのってどういう心理機構なんだろうなぁとしばしば思う。


しかも、こういう傾向のある人が「むこう」という比較対象について何事か知っているかというとそうでもない、という傾向は確かにある。

今回も、
「むこう」も心配しているから、NY市内じゃ400校ぐらいの学校が休校になっていた。昨日あたりから、さすがに感染の疑いのある人がいるだけで学校を閉じるのはやめようとなって、現在は具合の悪い人は学校に来るな、という対応に変わったところ(つまり、なんでもないみんなの就学機会を優先ってところでしょう)。


あと、今回は北米大陸発信で、北米大陸は既にもはや水際作戦はできなかった。
それに対して日本は、上陸させまいとしている。


この違いがあるから対応の違いになるというのもあると思う。
このへんを指摘してあげたら人々の気持ちの中の、あれ、私ら騒ぎすぎなの・・・?というちょっとした感覚を楽にしてあげられたのではないのか。我が邦の報道機関にそんな丁寧な仕事は望めないものの、何か、とてもチグハグだったなぁとか思う今日この頃。



で、日経さんが妙に無責任な「感想」を吐露していた。

▼「ヒスパニックがパニックを引き起こす」。1990年に米国でヒットしたメキシコ系ラップ歌手キッド・フロストのアルバムだ。表題は過激だが、懐の深い米社会への誇りが音ににじみ出ていた。疫病は人の心の垣根を高くする。姿が見えない敵におびえるあまり、外国から来た隣人を避ける“副作用”がこわい。

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20090505AS1K0100A02052009.html

でも、あなたも避けるかもしれないでしょ?
それなのに他人は避けるだろうことを想定して、他人を非難するというのは非常に汚い根性してるよな、と私は思う。いいこぶりっこ。


こうならないためには、どの国も感染対策の基準が高ければいいわけだすが、上でも書いたとおり、北米なんかは、感染者数の広がりをスローにすることには注意はあっても、もう水際じゃないからそれほど厳しくしても意味がない、という状況にあり、日本では、できるだけ感染の最初が入ってくるのを遅らせようとしている、と異なるフェーズにいる。


あと、北米との差でいえば、日本は公共交通機関を使う頻度の高い国で、北米はそうでもないという点も非常に大きい。


ジョー・バイデンが、先週はじめ頃だったか、こんな時には飛行機だの地下鉄になんか乗るなって自分の家族には言うよ、と言ったらしいけど、これが簡単に言えてしまう、このリアクションってのが要するにアメリカなわけだす。


でも、さすがにアメリカ人でもこの発言には何か、カチっと来た人もいたようで、パット・ブキャナンは、外に出るのが怖いという状況だったら、なんで最初にまずメキシコのボーダーを締めて様子を見ようという気にならないんだ云々と嘆いていた。
http://buchanan.org/blog/pjb-the-obama-flu-1520


私にいわせれば、要するにアメリカだから(より少ない程度にカナダも)だと思う。
何を言っているんだ、パット、と思った。


つまり、世界のために頑張る疾病対策センターとかは世界的な仕事をしていると思うけど、基本的な国の仕組みとしては、何かあったら自分が責任、もっと具体的には自分んちで篭城しろ、という暗黙な了解があると思う。公共の場所(公共交通機関を勿論含む)まで守ってやらないとならないという発想はないでしょう。空間内で何があろうとも、俺んちさえよければまずそれが一番(家族には篭れと言う、という発想)、というのが基本だから、ボーダーを締めようなんていう厄介なことを考えないのだと思う。


NYが今回他と異なる動きを見せていたのは、NYはマンハッタン周辺という、アメリカの中では例外的な場所を含むからじゃないですかね。マイケル・ブルームバーグは予想通り頑張っていた。この人は東の人、街のある人だなぁと思う。


災害が発生した時にどういう対応を取るかって、その国の地理的環境とそれが紡いだ歴史的空間認識とが色濃く反映されるんだと思うだす。