自立型であるよりない

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


と、そういう気分を個人的には持つわけだが、北米土壌としてはNew Yearというのはあまりおめでたい感じはしない。持論だが、北米および欧米はクリスマスのタイミングで(ギリシアロシア正教のひとは別カレンダーのクリスマスで)、日本は新年で(チャイニーズは彼らのカレンダーで)、要するに冬至を超えてターンしているということなんだろうと思う。だから、そのターニングポイントまでは、そわそわして、それが過ぎたら、はいおしまいとなるんだろう。そわそわしている、というのはおそらく暗くなっていくことへの不安なんだろうと思う。終わっちゃう、みたいな。


だから、北米におけるNew Yearのタイミングは余計。同様に日本におけるクリスマスは余計。だから、彼と二人っきりで過ごすクリスマス、みたいな、マジのクリスチャンが聞いたら卒倒しそうなクリスマスの行事が定例化しているんだろう。そうやって本旨とは関係のない、かなり商業的な意味づけをしていると。


もちろん、北米のクリスマスにも商業的な味付けは多くあるわけで、ヨーロッパ大陸に根の深い人たちは、クリスマス=買い物としか思ってないやにみえるアメリカ大陸の人々を、この時期毎年(あきもせず)こきおろす。彼らにすると、これは家族が伝統に従って集う時であって、プレゼント交換は付録だ、パーティーでふざける時じゃないんだ、と。しかしながら、彼らが自分たちのやり方をクリスチャンの本義と考えている風なのは誤りとも言える。キリスト教教会は過去にはクリスマス行事を禁止したりしていたわけで、現代の姿は歴史的な妥協の産物なんだろうな、というところだから。


結局のところ、まったく明らかに、世界中で、何人を問わず、一年のターンを寿ぐ心理は過去にあり、今にあり、今後もありそうだ、この強さはなんでしょう、という点にフォーカスを絞って観察すると興味深いのではないのかなど思う。