年寄りメディアを無視する思考習慣


で、上のように考えてきた時、日本に今ある不幸のうちで最も不幸なものは、大メディアがおしなべて、それ自体として自主的にイデオロギー主導型だという点だろうと思う。といってもぐじゃぐじゃなんだが、日本にある問題を数値から並べて、あるいは知見とインサイトを併合して仮説をたてたり検証しているというよりは、どっかの集会でこうあらねばならないと決まったらその線で書いてしまう、という方に見える、という傾向が強いこと。で、その集会でどんなことが語られているのかは闇の中、と。


それを押し返すためには、つまり、そこに飲まれないためには、ソースとしてのニュース以上のものを受け取らない思考習慣を構築することが大事。これは昨年度でほぼ達成されたような気はするが今後も継続だろう。


でもって、イデオロギー礼賛型であることと同じぐらい、日本の大メディア論調を避けて生きた方が個人にとっては幸いだろうと私が考えるもう一つの意味は、大メディアを主導している人が、「年を取っている」こと。


実際には、書いている人はおしなべて若いんだろうなとは思う。読んでて、ああこの人はこれもあれも見当がついていないんだろうなと、中年になった私から見てそう思えるケースが多いことから考えてもそうなんだろうと思う。が、それら若い人は、古い人に頭を作られている。少なくともそうでないと会社にいられない仕組みだからそう書いてとく、ということかもしれないが、なんせ頭を牛耳られている。


この大きな例は、なんといっても筑紫哲也氏だろうか。今では笑いネタにしかならないこのおじいさんだが、このおじいさんの「危険性」は、もっと早くに気付いてもよかったのだななど思う。


私はこの「危険性」を、このおじいさんと同じぐらいにおばあさんである私の母親に指摘された。もう7、8年ぐらい前だろうか。


母は、いわゆる戦後民主主義の申し子のようなおばちゃんなので、基本的には筑紫風論説に抵抗はないどころか、賛成だわ、とならなければならないはずの部分を多く持っているのだが、実際には非常に苦々しく思っていた様子で、ある日一緒にテレビを見ていた時、母は、意を決したように、「この人はもうやめるべきだし、出てくるべきでない」と言い出した。


母によれば、この人はこの人で若い時に考えたことや今でもそれが正しいと思っていることがあるのだろう、しかし、今それがそうなってはいない。この時、この人はそれを「嘆いている」。これは年寄りには多くありがちだ。しかし、もっと若い人、もっと遅く生まれた人は、嘆いている場合ではなくて、どういう問題であれ解決しなければならない。ぼやいて足りるなら、それはもう十分にぼやくことが役割となっていてもいいような生き方を獲得しているからだ、と。


だからそういうことは、同じようにぼやいて足りる老人たちとやればいいんであって、それを公共の電波で、毎晩毎晩発信しているのは害だと言うのだった。(言うまでもないが、年を取っていることとボヤキ好きは重ならない)


上の毎日新聞のリードを見た時、これを思い出した。