移民は双方向と想定するのが得策


上の記事で、日本社会がどうしたという下りの一部は次のようになっている。

They blame the pressure people feel under - Japanese society can be intolerant of failure, or of difference.

If you do not fit in, do not get a job or do not behave like everyone else you can be ostracised.

彼らは、人々が感じている圧力のせいだという。日本社会は誤りや差異に不寛容なことがある。

(*この彼らは、この社会はだんだん暴力的になっているといっている人がいる、というその人たちのことで誰かは不明。)

人々は上手く溶け込んでいけないと、あるいは仕事がない、他の人と同じことができないと追放されるかもしれないのだ。



ぱっと訳せばそうういことだそうだ。ostracise、追放、排斥なんて語をここで使うって、つまり、村八分にされる、って言ったんだろうなぁとか思う。

で、しかし、100年前はともかく、最近何十年、現実問題、日本を追い出される人ってほとんどいないわけですね。食えなくて追い出される人さえいない、というか、出ない。その結果として、内側に篭る系に入っていくんだろうな、と雑駁だがそういう傾向はあると思う。嫌なら河岸を変えてみっか、というのが容易な選択肢にならないから。


今現在は日本を除くアジアと、旧ソ連地域の人たちが移り住む主要大手になっているけど、そもそもは、ヨーロッパ人たちは食えない、上手くいかないとなったら北米に追い出して変化、調整を行ってきた人たちだ。

でもって、そのヨーロッパから北米大陸への流れというのはまだ止まっているわけじゃなくて、私はカナダにいるからなおさらだと思うけど、イギリスから来る人というのはいるわけです。少なくとも来やすいポイントとしての(旧植民地)カナダというのは現在も生きている。香港から大量に人を受け入れたのも同じ図だし、アフリカ、インド、西インドあたりのイギリスの息のかかった当たりから、どういうタイミング、どういうビザなのか知らないけどイギリスに一度移民して、それで成功する人もいるし、暮らせないので北米に、ってな人もまだ普通にいる。

フランス語が話せる人というのが中心テーマであるケベックにはフランス人は来やすいし、アフリカに行くフランス人ってのもいる。

さらに、冷戦とか言ってたけど北米におけるロシア人の存在感というのはかなり大きい。で、ソ連が壊れたからって世界中に人が飛び散っていく、ってのも考えようによっては奇妙な話だったが、食えなければ別のコミュニティに、という流れが所与であれば不思議ではない。


つまり、個人の人生のある時期に様々な都合で場所を変えるという問題解決法を非常に選択的に利用して来た人たちが世界には大勢いて、そのうちのヨーロッパ人は近代において影響下においた植民地を足場にそれを主体的に利用していると言っていいかと思う。

さて一方、日本はといえば、いっぺん大陸に足をかけたりしたけど失敗したし、非難轟々だったし、もう懲りたので外に行く話しは頭からすっかり消えている。

その上、あろうことか、そもそも広いところではない場所に移民を抱えようなどという話まである。


この構図内では、普通に、ちょっと息苦しい、under pressure風になるのもやむを得ないんだと思うんですけど・・・。つまりパイの取り分が減少する将来を見ているんだもの(その上経済拡大指向じゃないというトレンドがあるし)。

これは日本社会のヒストリカルな特異性の問題じゃなくて、世界政治経済中における日本の位置から来る構造的な問題なのではないのか、など思うわけだ。


で、そう、日本の社会といえば圧力が、息苦しい云々と語る人というのはいる。で、ではなぜ一度出てみようとは思わないのか、ってのが私としては長らく不思議。いやならいっぺん河岸変えてみたらどうかしら、など私はしばしば思う。


そこで、この構図を緩めるために、いくつかの国に日本人が結構いるとうだけじゃなくて、コミュニティセンターとして機能できるようなぐらいまで力を付けたポイントを作るような案を隠された国策として持つってのはどうだろうか? 正面からやると、侵略とか言われそうだから(笑)。いや、どうあれ結果的には、BBCはそう呼ぶだろうが。あはは。

チャイニーズやらコリアンが大量に来るかもしれないという事態が懸念されるならば、逆に、日本人も一定数出て行って、正当な力を持つことでバランスすればいい、とも言えるかもしれない。今のところは、特殊アジア地域は本国がいかにぼろくそでも日本には過剰に期待するという素晴らしい思考回路が堅持されているので、これをバランスする。ま、このプランの致命的なネックは相手方政府が正常な民主的手順の取れる政府でないのでこちらのリスクが驚異的に高すぎるという点だが、であれば、それはそれ。うちからの人が暮らせない体制を相手方が持っていることを明確にしていればいいし、相手を促すことにもなる。

・・・とはいえ、これはロジカルには成り立つとは思うが、到底やりたくない、できれば内戦必須の歴史の中にかかわりたくないという点がネックなので、やっぱり場所は好適地を探すべき。


現実に日本人の1%も出かけないってなことになるかもしれないし、5%ぐらい出るってことかもしれないし、どうなるかは未知数だが、体制、姿勢として、少なくとも受け入れるばかりではなく、相手にも受け入れてもらうつもりで、法整備を実行する(不要な恩恵、特典を排除して、シンプルに強力な法執行能力を付ける等)、法遵守の慣行を語るというのは非常に重要だと思う。この部分だけでも意味はある。
(こうやって、自国の権利を他国内に保持するために歴史的に国民をあちこちにばら撒いて来た、ってのが世界の近代でした、っても言えるでしょうが、ま、悪い方向にばかり考える必要はないわけで、法整備の共通化に使えればいいんでないの?)


いずれにしても、どうしてもあかん、上手くいかない、苦しいのだったら、ちょっと他の空気を吸える回路を探すことを念頭に入れるという思考は悪いことではないと思うし、少しバックアップしていく必要性が考察されてもいいように思う。


上記のように考えて来た時、私には、

移民、1000万人受け入れ提言…自民議連案
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080608-OYT1T00264.htm

人口減少社会において国力を伸ばすには、移民を大幅に受け入れる必要があるとし、「日本の総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」と明記した。


このアイデアでは、さらに詰まる、内に篭る方向に行くだけだと思える。
結果的に受け入れ超過になるのだとしても、これではいかんよ、と私は思うなぁ。出て行く可能性を一応でも二応でも想定して、たとえば、

他国との共通の土台で生きる世界の中の日本を目指します、
つきましては、その法整備としてこれこれ、
その指向性の現れてとしてこれこれ、といったことを述べ、

中間地点の結果としては、移民の受け入れはこのぐらいになることを想定しています、

とすればいいのでは?