これも劼箸弔寮掬?

とはいえ、それにもかかわらず私はこの問題を引き続き追って行こうとは思う。なぜなら、それは相手があることだから。

私たちの多く(概算で、ま、日本人の多く)の中でなら、なんというか、適当な落としどころが見つかったら、「自ずから明らかになることがあります」ってのは、かなり好意的に取り扱われるアイデアだ。必ずわかってもらえる、みたいなことを言う人は多いし、それがいったいどんなプロセスを指しているのか、あるいは意図しているのかなんてことに少しも考えが及ばずともそう言って平気な心の状態を第二の自然として獲得している人は多い。が、これは、私の知る限りは西洋人にもあんまりあてはまってないと思うし、チャイニーズにもあてはまらない。それが良いか悪いかではなくて、だってそうなんだから仕方がないと思う。蛇足ながら、「自然」っていう語が使われる語が持つアイデアのうち、相当多くのものは狭い意味での日本人に独特な考えで、これをただちにnatureなんかにしたって全然意味が通じないとは多分多く語られていることでしょう。


それはともかく、

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中国人にとっての「歴史」とは、国内問題であれ国際問題であれ自らの正当性を主張する媒体なのであり、「歴史事実」は二の次に置かれているということである。
南京大虐殺」の虚構が証明されても、「南京大虐殺」を主張することが政治的に必要であれば、彼らはこの「政治主張」を繰り返す。
これに対し我々は、事実認識をしっかり持って自らの見解を冷静に発信すればよい。
「どうしてウソをいうのか」という感情的対応は禁物である。
 彼らの「政治」にからめとられるだけである。

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by 北村 稔 立命館大学教授
http://www.history.gr.jp/nanking/books_shokun0206.html


そういうことなんだと思うんだな、私も。ある種、レジティマシーを付与できるものこそオーソリティー、皇帝だ、みたいな感じなんじゃなかろうか。ちなみに、問題の整理として論考自体も面白いです。ま、完全にあくまで30万人虐殺は厳然として存在している派だと自認している人は健康のために読まない方がいいと思うけど。


と、であればこそ、そう、アイリス・チャンの死を「自然」になど受け取れるものかと考えたくもなる。