話をわやにしない。分けて考える

衝撃の殺人事件から一夜たった。心から腹立たしく、心から悔しい事件だ。
亡くなられた方のご親族やお友達のことを考えると、なんといっていいかわからない。無念なんてものではないでしょう・・・。


で、続報をと思ってみていたのだが、「通り魔」というのはなんとかならないのだろうか? 通り魔じゃ、まるで魔がさした人が他人を殺めたみたいなニュアンスがある。

一方で今回の事件は、明らかに明確な殺意を抱いてしっかりきっちり計画し(彼の計画本体との乖離はしらないが)たとしか思えない事件だ。

さらに、その前に、ひょっとしたら実行にあたっての準備期間とかあったのではないのかとさえ思わせるものさえある。何者この人?みたいな。いくら車で撥ねてダメージを与えたとしても、後ろから追って致命傷を与える×複数回って、現実の訓練か少なくとも頭の中での予備知識がなければできなくないのか?など思う。


そんな状況を、通り魔なんて、まるで神隠しの親戚みたいな名前で語るのはおかしい。


読売 秋葉原無差別殺傷
朝日 秋葉原無差別殺傷

毎日 秋葉原通り魔
産経 秋葉原通り魔事件


私は、読売、朝日を支持する。

つか、もう、テロと書いても怒らないな。

無差別殺傷は、国家=国民に対する重大な脅威である、という認識からすれば、私たちは事件発生の瞬間明確にこの25歳男子に敵対し、今はその結果がある。


と、一般的に、こうした考えというのはどこの社会でも、警察権力という国家権力の一部門と個人の関係から、普通に読み取られる話だろうし、だからこそ、このような社会不安を巻き起こすような犯罪を断じて許してはならない、というトーンが堅持され、その上で、しかしなぜこのような犯罪が起きたのか、という検証のようなものがあればとりあえず上等、となる。

(私はアメリカとかイギリス、カナダという社会が個々の殺人事件について背景を探って社会問題として捉えましょうという動きが強い社会とは認識していない。むしろ個別事情として被害者と加害者が個人でバトルをすることで、解決、おしまい、になっている傾向の方が、対日本で大きいと考えている)。


にもかかわらず、というか、なんというか、さすがBBC。
既に、日本社会の圧力やら、不平等(いうところの格差)の拡大が原因という説もあるんだが、といったことまで水を向けている。これはさすが。とても大きな皮肉で!
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7442545.stm


当然のことながらまだ背景情報も何もわかていないのだから、ワシントンポスト、カナダのいくつかの新聞等他紙は日本で報道されていることしか出ていないといっていい。せいぜ、日本はこれまで安全といわれてきて、実際重大犯罪の比率からすればまだまだ少ない国だが、このところこうした犯罪が増えている、という、あまり正確ではないが、とりあえず結びとして間違ってもいないことで終わっている。報道の範囲内というべきだろう。


が、BBCは、まだ日本でも背景がわからないと言っているわけだが、こうかもよ、といって、不平等な社会、圧力の大きい社会が原因では・・・というフリが既に登場。なんというか、あれだ、成り行き、consequenceとして、これを受ける日本等他の受け手が、この線で書き出すことを導いているような感じがするっすよ、私は。


きっと一両日中に、ほうらBBCはわかってる、諸外国では日本をこう見てると書き出す人がいるに100ペソ。


しみじみ、BBCってか、誰だか知らないけどBBCを先鋒メディアにしている人たちって、自分の国は原則通り治安確保には断固たる処置は当然、異質もくそもない、一方、他人の国が議論の方向があやふやになって不穏になるのは大歓迎ってことでしょうか。
ある意味国家の戦略的に正しい路線でメシを食っているよなぁなど思った。絶対逃さない、といわんばかり。
オーム事件を思い出させられるとまで言って写真まで添えてる。それって相当事情が違うと思うわけだが、まさか同じだといでもいうんだろうか?


ま、おそらく、最終的に、東アジアで地域圏を作れ、って話に落としたいのだろうし、そのために日本社会を開ける、みたいなステップが今だから、こういう入りなんだろうかななど思ってみたりはする。


もちろん、日本社会の中の不穏とか、格差問題といったことはそれはそれとして国内で考える必要はあるわけだが、こういう煽り系は参考程度にして進むべきだと思う。


そして私は、もろもろの格差社会等の問題と殺人事件を混ぜるのは間違っていると考えている。また、どういう事情であっても罪もない他者を殺害しない人はしないのだ、という点を私たちはしっかり踏まえるべきであると考えている。



で、それはそれとして、BBCのありがたいご宣託を読んで気がついたこと。

 移民は双方向と想定するのが得策


上の記事で、日本社会がどうしたという下りの一部は次のようになっている。

They blame the pressure people feel under - Japanese society can be intolerant of failure, or of difference.

If you do not fit in, do not get a job or do not behave like everyone else you can be ostracised.

彼らは、人々が感じている圧力のせいだという。日本社会は誤りや差異に不寛容なことがある。

(*この彼らは、この社会はだんだん暴力的になっているといっている人がいる、というその人たちのことで誰かは不明。)

人々は上手く溶け込んでいけないと、あるいは仕事がない、他の人と同じことができないと追放されるかもしれないのだ。



ぱっと訳せばそうういことだそうだ。ostracise、追放、排斥なんて語をここで使うって、つまり、村八分にされる、って言ったんだろうなぁとか思う。

で、しかし、100年前はともかく、最近何十年、現実問題、日本を追い出される人ってほとんどいないわけですね。食えなくて追い出される人さえいない、というか、出ない。その結果として、内側に篭る系に入っていくんだろうな、と雑駁だがそういう傾向はあると思う。嫌なら河岸を変えてみっか、というのが容易な選択肢にならないから。


今現在は日本を除くアジアと、旧ソ連地域の人たちが移り住む主要大手になっているけど、そもそもは、ヨーロッパ人たちは食えない、上手くいかないとなったら北米に追い出して変化、調整を行ってきた人たちだ。

でもって、そのヨーロッパから北米大陸への流れというのはまだ止まっているわけじゃなくて、私はカナダにいるからなおさらだと思うけど、イギリスから来る人というのはいるわけです。少なくとも来やすいポイントとしての(旧植民地)カナダというのは現在も生きている。香港から大量に人を受け入れたのも同じ図だし、アフリカ、インド、西インドあたりのイギリスの息のかかった当たりから、どういうタイミング、どういうビザなのか知らないけどイギリスに一度移民して、それで成功する人もいるし、暮らせないので北米に、ってな人もまだ普通にいる。

フランス語が話せる人というのが中心テーマであるケベックにはフランス人は来やすいし、アフリカに行くフランス人ってのもいる。

さらに、冷戦とか言ってたけど北米におけるロシア人の存在感というのはかなり大きい。で、ソ連が壊れたからって世界中に人が飛び散っていく、ってのも考えようによっては奇妙な話だったが、食えなければ別のコミュニティに、という流れが所与であれば不思議ではない。


つまり、個人の人生のある時期に様々な都合で場所を変えるという問題解決法を非常に選択的に利用して来た人たちが世界には大勢いて、そのうちのヨーロッパ人は近代において影響下においた植民地を足場にそれを主体的に利用していると言っていいかと思う。

さて一方、日本はといえば、いっぺん大陸に足をかけたりしたけど失敗したし、非難轟々だったし、もう懲りたので外に行く話しは頭からすっかり消えている。

その上、あろうことか、そもそも広いところではない場所に移民を抱えようなどという話まである。


この構図内では、普通に、ちょっと息苦しい、under pressure風になるのもやむを得ないんだと思うんですけど・・・。つまりパイの取り分が減少する将来を見ているんだもの(その上経済拡大指向じゃないというトレンドがあるし)。

これは日本社会のヒストリカルな特異性の問題じゃなくて、世界政治経済中における日本の位置から来る構造的な問題なのではないのか、など思うわけだ。


で、そう、日本の社会といえば圧力が、息苦しい云々と語る人というのはいる。で、ではなぜ一度出てみようとは思わないのか、ってのが私としては長らく不思議。いやならいっぺん河岸変えてみたらどうかしら、など私はしばしば思う。


そこで、この構図を緩めるために、いくつかの国に日本人が結構いるとうだけじゃなくて、コミュニティセンターとして機能できるようなぐらいまで力を付けたポイントを作るような案を隠された国策として持つってのはどうだろうか? 正面からやると、侵略とか言われそうだから(笑)。いや、どうあれ結果的には、BBCはそう呼ぶだろうが。あはは。

チャイニーズやらコリアンが大量に来るかもしれないという事態が懸念されるならば、逆に、日本人も一定数出て行って、正当な力を持つことでバランスすればいい、とも言えるかもしれない。今のところは、特殊アジア地域は本国がいかにぼろくそでも日本には過剰に期待するという素晴らしい思考回路が堅持されているので、これをバランスする。ま、このプランの致命的なネックは相手方政府が正常な民主的手順の取れる政府でないのでこちらのリスクが驚異的に高すぎるという点だが、であれば、それはそれ。うちからの人が暮らせない体制を相手方が持っていることを明確にしていればいいし、相手を促すことにもなる。

・・・とはいえ、これはロジカルには成り立つとは思うが、到底やりたくない、できれば内戦必須の歴史の中にかかわりたくないという点がネックなので、やっぱり場所は好適地を探すべき。


現実に日本人の1%も出かけないってなことになるかもしれないし、5%ぐらい出るってことかもしれないし、どうなるかは未知数だが、体制、姿勢として、少なくとも受け入れるばかりではなく、相手にも受け入れてもらうつもりで、法整備を実行する(不要な恩恵、特典を排除して、シンプルに強力な法執行能力を付ける等)、法遵守の慣行を語るというのは非常に重要だと思う。この部分だけでも意味はある。
(こうやって、自国の権利を他国内に保持するために歴史的に国民をあちこちにばら撒いて来た、ってのが世界の近代でした、っても言えるでしょうが、ま、悪い方向にばかり考える必要はないわけで、法整備の共通化に使えればいいんでないの?)


いずれにしても、どうしてもあかん、上手くいかない、苦しいのだったら、ちょっと他の空気を吸える回路を探すことを念頭に入れるという思考は悪いことではないと思うし、少しバックアップしていく必要性が考察されてもいいように思う。


上記のように考えて来た時、私には、

移民、1000万人受け入れ提言…自民議連案
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080608-OYT1T00264.htm

人口減少社会において国力を伸ばすには、移民を大幅に受け入れる必要があるとし、「日本の総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」と明記した。


このアイデアでは、さらに詰まる、内に篭る方向に行くだけだと思える。
結果的に受け入れ超過になるのだとしても、これではいかんよ、と私は思うなぁ。出て行く可能性を一応でも二応でも想定して、たとえば、

他国との共通の土台で生きる世界の中の日本を目指します、
つきましては、その法整備としてこれこれ、
その指向性の現れてとしてこれこれ、といったことを述べ、

中間地点の結果としては、移民の受け入れはこのぐらいになることを想定しています、

とすればいいのでは?