アナクロニズムと商売


6カ国協議北朝鮮が参加を留保 「核兵器保有も明言
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050210-00000096-mai-int


これはやっぱり日本の建国記念日を狙ってきたんでしょうかね。なんかこう、妙なアナクロニズムを感じさせる。北朝鮮の対応って日本から出ていった人が多数絡んでいるんだろうなぁとしばしば思う。微妙なルサンチマン、宛先の間違っている嫉妬みたいな感情は他者には発生しないだろうと思うのだ。


しかしそこを見すぎるのは多分間違いで、この問題はやっぱり、復興資金狙いの団体および個人などなどがどうすっかな〜と思いながらぐじゃぐじゃにしているのじゃないのだろうか。全然根拠ないです。突っ込まれてもいえるものは限られてます。で、資金提供先候補としての日本を心情的に絡めておく作戦が一方にあるが、他方には別のアプローチがあるようなうまくできないような、みたいなところかなと。


で、アナクロな人々は、いいように使われているだけだと思うわけだが。いやわかってて参画してたりするのかもしれないけど普通そういう人はどこかで脱落するのが相場ってもんかな、とかとか思う。アナクロじゃ商売できないから。いや、でもデジタルでも商売って成り立たないよね。じゃあなんだ。なんだろう。答えがないならそれは分類が間違ってるんだな。自爆してどうする。



ま、それはともかく、この記事は今日は英文各紙(つまり世界中)で大きな扱いを受けている。
http://news.google.com/news?num=50&hl=en&lr=&c2coff=1&tab=wn&ie=UTF-8&q=North+Korea&btnG=Search+News


そんなに驚くことなのか、内容的には想定内のことばっかりじゃんかと思ったりするが、このインパクトから何を引き出すつもりなのかがよくわからない。オーストラリアのハワードは、ブラフだよ、と言っているようだが、北朝鮮から出たものでブラフ以外のものがあったのかと考えてみるとおかしい。

 脳内カレンダー

私は今、暑さ寒さも彼岸まで、と自分に言い聞かせながら、もうちょっともうちょっとと思って寒い季節をしのいでいる。しかし実際には全然もうちょっとじゃないわけで、もう、終わりでしょ〜と思う頃まだ寒く、そこ、すなわち3月の下旬になって毎年へこたれることになっている。つまり、ここのカレンダーと私の体内(含む脳内)カレンダーがあわない。


だからfinalventさんがとても面白く書き起こしてくださった今日の「極東ブログ」内のこの、初回の紀元節を設定した際の人々の感じはとてもよくわかる。何をいわれてもそうなんだからしょーがないっしょ、だっただろう。

初回の紀元節というのは、大半の日本国民にとって、まったくもって、ただの正月だったのである。新暦みてーな西洋暦(グレゴリウス暦)でアジア人は生活することはできない。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/02/post_9.html


しかし、これはどうかなぁ。

 いずれにせよ、現代日本は、休日もひょこひょこフロートさせるのだし、特に建国記念の日の日付については法的根拠もない(政令による)なので、今後は、建国記念の日も、正しく、春節に合わせればいいのではないかと思う。いや、マジで。建国記念なんてそんなもの。いやいや、そんなふうにめでたいものだ。爆竹BANGBANGBANG


脳内というより論理的にはそういう帰結に歩があるのはわかるんだけど、だけどそのはっきりいえばかなり迂闊な、あるいは強引な、あるいはなんだよこの暦オタクとか言いたい人々(オタクでない暦学者なんていないと思うが)が「紀元節」を作ったにせよ、これを、そういうもんでっせと言われてそういうものにしてしまった人々、つまり私たちにしてみたら、いきなりそっちが正統ですと言われても体内も脳内もついていかない。いい加減なカレンダーでも自分のデフォになってる人が多いわけで、建国記念日っつたってねぇ、なんの日なんだかまったくと一人ごちるというこの習慣さえ既に歴史なのじゃないのかしら。毎年この時期になると暦のことを考えるってのさえ根源になっていくような(笑)。


finalventさん、頭よすぎっすよ。ヘーゲリアンか?など言ってみたいものがある(もちろん尊敬の念をこめて)。あるいは森鴎外か、みたいな。わかんないけど。


昨日書いたように、第一列が決める正統、非正統と第二列のそれはどうしてもずれる。そういう話だと思う。どっちも大事だけど、国民国家っつーか、民主主義っつーである以上、何を直すにも修正するにも、同意、周知徹底、そして時間的余裕をもたせないとならないわけで、それさえクリアできるのならなんでもありだと思うけど。なんでもありの慣習法擁護的私だからかもしれない。

 リベラルを叩く


これは重要な指摘だわと思ってよみました。「むなぐるま」さんの最近のエントリー。


日本ではリベラルブロガーのハブはないのだろうか
http://munaguruma.air-nifty.com/blog/2005/02/post_3.html

アメリカ政治の問題について、リベラル系の動向を知ろうと思ったら、The Nationのサイトを見るとか、ブログではKos, Atrios, Talking Points Memoをざっと読むとかの方法がある。日本の場合はどうだろうか? 


で、もともと常に政治的な勢力がかぶってしまってリベラルを十分に発展させられていないところに根源的な理由はあるんだと思うんですが、その薄い層をさらにえぐるように、リベラルっぽい人の意見をかっさらうように、いわゆる「反日家」(by 若隠居さん 1))めいた人々の意見が表に出過ぎるってことが常に問題なのでしょう。単純ですが。いや、だからいつも同じ状況かもしれない。確か柄谷行人の『日本精神分析』の中にもあった、小林秀雄ががっくりしていく経緯ってのはこのへんなのじゃないのかなと思う。


今日はやけfinalventさんに絡んでるみたいだけど、時々氏のサイトにいわゆる「うんこ投げ」(by 同氏)が発生する、しないということがあるように見えるけど、これなども同じ経緯だと言ってよいのであろう。両者ともに、右翼とみなされるわけでしょ。馬鹿げているわけだが。


ここをどうにかしないと、なわけだけど、やっぱり多くの人は「うんこ投げ」に弱いということでしょう。しかしながら、であれば誰が「うんこ投げ」をしているのか、とても個人とは思われない、というところが焦点なのでしょう。



1) 下のコメント欄。
http://blog.goo.ne.jp/wakainkyo/e/18b085cef3037d83bece669a7ac2424b


にせ藤沢人さんの「にせ日本人@反日生活」というアイデアを受けて。あははの展開となったと。で、こういう書き方をすると、ふざけている、とみなされていわゆるメジャーストリームでは絶対に取り上げられることはなくなるわけだけど、こうでもしないと気が塞ぐという展開になっているということなのでしょうと思う。リベラルな人々にとって。


[捕捉]
[中国 ]「中国的民主」の現実
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050204

上の状況を捕捉し得る重要な指摘だと思う。「世界」に載ったという「中国的民主」あるいは憲法についての状況に対する批判的な視点を紹介されている。


しかし私が重要だぁ〜と思ったのは、それそのものよりも(だってそうらしいじゃん、なんで今さらってな話なんだもの)、梶ピエール氏のこの指摘。

これを「新左派」知識人たちのように、単なる西洋中心主義的な法学者による偏見として切って捨ててよいとは、僕には到底思えないのだが。『世界』もたまにはやるじゃない(なぜ2004年5月号の論考に対する批判が今頃になって載るのかは謎だが)。


リベラルであり得た人々ないしは場、ないしは論著を塞いでいる思考がある、ということだろうと思うし、それの核が「西洋中心主義的な法学者による偏見」なるアイデアだ、ということじゃないですかね。これは私の見解であって、引用元の梶氏のものではないです。ご注意ください。いずれにしても、とても重要。赤丸つけてたんだけど(どうやってよ?)ここに置いておこう。