人の前で嘘をつく

カナダの元首相のスキャンダルを取り上げようと思ったのだが、まとめて読む時間がなかったので明日・・・かそのうち考える。証言に立たされてて、こいつ知ってるか、いや知りません(i don't know him)を延々やってるのを聞くってのも、意外とドキドキなのだわなとはわかった。もちろんやってる方はもっと大変だろう。で、もしそこで嘘を言えるんだとしたら、勇気がいるし、度胸もいる、もしそれが人前ならば、ってことだなぁとしみじみ思った。


紙面で嘘をつくのが相対的に簡単なのは、多分それが肉声だっていう感覚がどこかで失われるからなのかもしれないな、そして、それが流れてしまうからと思いなすことができるから、と、結局あてこすりを言いたくなるわけだが、隊長、今朝もかっとばしていた。


週刊FLASHで連載中の投稿ページのお題を出して意見を募集。


朝日新聞をよりよくするためにはどうするべきか考える」
(2/8 締め切り)
「世界に冠たる逃走兵、ジェンキンスさんの新しい仕事を考えてあげよう」
(2/15 締め切り)
http://kiri.jblog.org/archives/001382.html#121



朝日新聞という語がすでに「ネタ」になっているのがありあり。


もちろん一部の人には既に珍しくもなんともないが、それがバーチャルに「表」(昨日の話を参照してね)にせり出してる感じ。つことは、裏も引きつられる、と。で、こうやって紙媒体に移行させよーと綱をひっぱりあげる隊長がいるってことなんだろう。でもって、そのうち、右傾化するネットなになに、とかいうアエラが来る可能性はまだあると思うな(そうならないように撃沈したって言ってたけど)。で、まったくそうよ、と平和に朝日と共存する人も多く残る。この形式はかなり強い。なぜならその方がまったく気が楽だからだ。キーは実はリアリティがないというところだと思う。隊長、自分が感度がいいからって相手もそうだと思ってはいかんでしょう。「朝日が追ったら流行も終わり」ってのが朝日の真骨頂なんだからさ。でも、それでも行ってしまうから「隊長」なんだろう。


お題の方は、コメント欄を読むと誹謗中傷じみたものはたいしてなくて、大別すれば、立ち位置をはっきりさせろ、か、ブログにしろ、みたいなのをグルーピングできるように思うんだが、この2つは同じことかな。つまり、別に何を志向しててもいいんだけどさ、それを正義とか公正とか言うなよ、偏ってるくせしてさ、ってことだろう。で、ブログにしろ的なものは、対話体になったらボロが出るからそれが公正、中立、どっから行っても正しいじゃないことがわかる、ってことっしょ。


いい人が多いんだなと思った。

 同調圧力の効用


憂国」という同調化圧力
http://eiji.txt-nifty.com/diary/2005/02/post_7.html

総連だって最早一枚岩じゃない。そもそも彼らにはもう発言権がほとんど無いでしょう。だから、左翼な連中にすり寄って、彼らをダミーにするしかない。でも、言わせておけば良いじゃないですか。総連なんてただの絶滅危惧種ですよ。「反日左翼」という表現は、あまりに侮蔑的で嫌だけれど、彼らだって、世間に対して影響力は何ら持っていない。せいぜい「週刊金曜日」の固定読者の数万人に対して線香花火を点ける程度のことしか出来ないじゃないですか。そのまま人間国宝に指定して、戦後日本が生んだ徒花として保護してやれば良い。


作家の大石英司氏のご意見。これはとても分かる。そして半分ぐらいの自分はこうなんだよなとも思う。だけど、それでいいのだろうかと、どうしても私は割り切れない。割り切れているのならもう多分何も書いたりはしないだろう。商売ではないのだから。


大石氏はご自分でも書かれている通り、左翼に親和的だから心理的距離が小さく対象に近いために、左翼といった時、第一列を見ているのではないかと想像する。そしてこのことから来る事態に対する錯誤が生まれているのではないか。つまり、一列目にはバカだとしても理念がある。しかし二列目にあるのは理念ではなく信仰だ。問題はこの二列だ。一列目は自らの意志でそれを捨て得るが、二列目はそれはとても難しいと言い換えてもいい。意図と結果は違う。


この時、私はそれを見ているのだろうか。あるいは、自分のことだから「べき」と使ってもいいだろうが、見ているべきなのだろうかということ。もちろん、一番いい回答は見ないふりをすることだし、自分にできることを諦めることだろう。


私には同調圧力が常に悪いことだという自信はない。なんとなればその中でコンセンサスを得たものが数多く私のプロパティとして内在しているはずだからだ。そして、同調圧力を無視して生きていける(それは食うという行為を含めて)人がそれほど多いとも思わない。

 妹よ、日本国籍を取れ

妹よ、日本国籍を取れ−最高裁判決、原告は差別だと批判したが
鄭大均・都立大教授/在日韓国人・鄭香均 
ニューズウィーク(2/16)
http://www.zasshi.com/ZASSHI_SOKUHOU/data/newsweek.html


鄭大均氏の発言自体には全然驚かないが、ニューズ・ウィークがこう来る、ってのに驚く。あの、あのNW日本版、頭腐ってるだろうおめーと毒づいて読まなかったら中毒になりそうなあのNWが、に驚く。


ってか、その前にこのお兄さんの妹だったのかというのは驚いた。知らなかった。ってか、なんとなく名前がにてるなとは思ったけどそもそも姓が少ない人々だからなとか思ってた。が、じゃあ、あの会見のテレビ的仕立ては、ずいぶんと別のイメージにもなり得たのだなと今さらながら、日本のテレビ局のわけのわからなさにぞっとしてみるっすよ。


一応陰謀論的には、北を悪者にして南を救うぞ作戦なんだろうなとは思うし、意図がどうあれそういう結果になるだろうが、でもこのお兄さんの言っていることは(私の知る狭い範囲だが)概ね筋は通っているのじゃないかと思えるのでケチをつけようという気はない。比較対象に生姜を持って来ようという失礼なこともすまい(笑)。それはあまりにひどい。国立大学教員審査要求するぞ。


そうそう、このお兄さんが出てきてはたと気がつくのは、 生姜 とか例の妹って二つの「国家」の間で苦しんでるなんて聞こえのいい話ではなくて、むしろ 日本 製サヨク なんじゃないのかなということ(そもそも朝鮮語を話せないらしいじゃないか。それは山川海の切り口、つまり世界へのアプローチがそこにいる人々と異なっていないという意味でもある)。世界知らずというか、他に比較対象がないのに「 日本人 はぁ」とか言ってまったく平気という発想だし、なぜこういえるのかといえば、それは身内への甘えだからというオチ付き。


身内だと思うから、といって身内ではまったくないのだが擬似的に身内のようなもの、要するに自分を含めて個人という発想を欠いている状態に安住している。だから、全員ひっくるめて「 日本人 は残酷 だ」とか優しい誰かの前で言ってもまったく気にもとめない。個別の他者を相手にしていたらエライことだ。


でもこれは日本人に特徴的な話ではなくて、移民したての人にはよくある。カナダ人のおばさんに助けてもらってるのにもかかわらず「カナダ人は冷たい」とか平気で言ってる。そのうち自分が話している個別の誰かと、捨象の結果である「カナダ人」の区別がつくようになる。むけられてる個別のカナダ人の方は言語が未熟な時にはありがちだと思っているのか、結構みんな鷹揚に見えるがそうでない場合も当然ある。おまえなんだ、と。

そもそももし本当に二つの国の間で苦しんでいるのなら、たとえばAという親かその親かの国を幻想した場合、それはつまり、自分が他集団の中にいるものとしての自覚になる。契機だ。その時、少なくとも(よしんば一時でも)、どっちでもいいんだ、とはいえなくなる。なぜなら、境あるいは枠があるからこそAだからだ。どっちでもいいのなら、Aでなくてもいいのだ。従って、お兄さんの行動は、Aへの尊敬の故であるともいえるんだろう。他者であるからこそ尊敬できる。生姜、偽じゃん。