「社会の問題」とか言う反社会性指向かも

涼しすぎる。33度から翌日17度とかいうジェットコースター気候は身体に悪い、まったく。
そういう暑いんだか寒いんだかわからない夏前の気候をなんと呼んだらいいのか。春?春ねぇ〜。そう、ここは、夏2ヶ月(7、8月)、その前後に2ヶ月づつ不明期があって、残り6ヶ月ははっきり冬、というのが四季、と総合していえばそういうことかと今さらながらだが、しっかり言語化すると過ごしやすい。いや程度問題だが。


そういうトロントでは昨日、2人のティーネージャーが撃たれた。
犯人はまだ不明。一人は重体、一人はそうでもないようなことを聞いた。一説によれば間違って撃たれたのではないのか、とトロント市警の刑事さんが言っている模様。


この報道を聞きながら、ふと、銃撃事件を迎え撃つ私たち、の差異をちょっと考えた。
いや、もっとスペシフィックには、社会という語をどう使うんだけっか@トロント、みたいな。だって、日本の報道、ブログ等を見ると、事件発生直後から、これは社会問題ってなスタンスを強烈に持つ人が多数いたと思ったから。


で、そう思って気にしていたが、これまでのところでは社会という語が使われる文は見当たらないので(ま、ありがちな銃撃事件だ、みたいに受け止められている感じだし)、ではどういう風に使われるっけか、と経験に基づき想像してみた。

おそらく、社会的に責任のある人とか、被害者の家族とかが、必要があれば、犯人逮捕のために、publicに協力をお願いする、となる。ダイレクトにパブリックに、という場合もあるだろうが、もっと訴える場合は、この場合のパブリックは、つまり一般大衆、あなた、のことだから、あなた(がた)に協力を求めます、ってな言が聞かれる。

次に、誰か責任のあるポジションにいる人がコメントを求められたら、私たちはこのコミュニティの秩序、安全を守るために、犯人逮捕を云々、みたいなことを言うだろう。で、ここのコミュニティの代わりに、for our societyとか言う人もいるかもしれない。私たちの社会のために、と。


で、この場合、私たちの社会という場合には、明らかに犯人によって傷付けられた社会となるだろう。当座その犯人は、あきらかに私たちの社会の一員であったとしても、私たちの社会の平穏を守るために、という視点では、事件を起こした彼・彼女は、その社会に対する秩序破壊者としてのみ存在している、など言ってもいいかなと思う。いえ、そこまで言ってません、それは極言です、という人もいるかもしれないが、しかし、では、事件直後に、犯人を含めた私たちの社会全体が考える問題です、とまず言えるか、となったら、結構悩むんではないのかと思う。つまり、秩序破壊者が破壊者である限り(刑に服してない)、この人に同情を寄せられない(寄せるべきでないという心理規制を含む)からこうなるんじゃまいか。


これに対して、日本では、例えば今回は非常に特徴的だったかもしれないが、無作為に計画的に人を殺しまくった(無作為というより計画的という点で北米殺人スケールでは偶発的なものでない、故意の殺人=最悪、ってなランクになる可能性大)にもかかわらず、事件直後から、彼の問題を私たちの社会の問題として捉えるべきだ、と言う人がそこら中にいる。


それどころか、

「派遣法の順守徹底を」秋葉原殺傷受け厚労省緊急通達
http://www.asahi.com/national/update/0613/TKY200806130071.html

  舛添厚生労働相は同日、閣議後の記者会見で
  「派遣労働そのものが悪いわけではないが、問題の背景に派遣があるという認識を持っている。
  少なくとも法令を順守してもらわなければいけない」と話した。


とか言っちゃう。
問題の背景に派遣があるという認識って、どういうセンスなんでしょう?と私はかなり疑問だが、すっかりその道に入っていく閣僚がいるのが日本、と。


これって、その他大多数の派遣労働者を無作為に犯罪者予備軍に組み入れるようじゃないのか、とは思わないのだろうか?だし、私がこれまで見た限りでは、今回のこの25歳の殺人者は、去年には正社員の口もあったけどそれを蹴ったのかなんなのか、少なくとも首になったという顛末ではなく辞めているわけで、要するに、自分が望む、こうなりたい、あるいはこうであるべきだ、と考えるキャリアと、現状得られるキャリアにギャップがある、ってな話だと思う。


(ちなみに私は多数、複数回、派遣会社には世話になった。つまり派遣労働者として働いた経験は結構あるが、そんなに深刻に問題のある制度だと思ったことはなかった。むしろ、違う職場を転々とすることで自分なりにスキルを客観評価できていいじゃん、とか思った。ま、お気楽だからさ、といわれりゃそれまでだし、スキルの基本はユニバーサルで移転可能なこと、という信念みたいなのもあったし。だからあんたは負け組みなんだといわれたら、へいそうですかい、と答えるつもり。)


そして、25歳であればそれを埋めるために自分でなんとかできる年齢だ。私はもう、自分が老いていく段階にあるので、まったく明らかに、普通に、まだまだ全然チャンス一杯と言う。さらには、この人んちはお金に困っている家庭ではないようだから、やり直すための条件はその他大多数よりも良いとさえいえるだろう。だからこそ去年青森に帰ったりできたのじゃないのか?


したがって、厚生大臣がこのタイミングで派遣法と事件を結びつけているとう認識を持つのは、早計か、ニュースを良く見てないか、でなければ、そういう(後述のような)考えの持ち主なんだろうな、とか思ってしまう。


私は別にカナダまたは北米で表現されるであろうと考えられる殺人者への向かい方が良い、最良だとか言っているわけではない。
しかし、無関係の人を巻き込んで殺人を行った者を、よってたかってまず背景を知ると称して、結果的には庇いに入るのは、今後のためにも、私たちの社会にとっても全く良いことだとも私は思わない。


で、なぜこういう差異があるのかなぁと考えるに、このへんは、つまり、なんつーか、さすが70年代には無差別爆弾テロ事件の国だっただけのことはあるよなぁ、なのかも。つまり、不満の訴え方として、暴力を排除していないどころか殺人さえあり、という思想というか、思考というか、指向というか、嗜好というかが嫌悪されずに、妥協的に存在している。少なくとも、識者等がこういう殺人者を断固許さない、といったことをなかなか言わない、冷たくあしらわない(動機をといって、結局好むと好まざるとに関わらず同情を呼ぶ)わけで、強く嫌悪されていない。


舛添氏は事件の背景に派遣法を見るのだそうだが、私はそれよりもより強い程度に(いずれにしても程度問題だとしても)、暴力によって社会に訴えるというスタイルの是認度(あるいは妥協度)を背景に見るかな。

安易に「社会の問題です」とか言う人は、それが反社会的な行動に道を譲る可能性を秘めていることに気づくべきじゃないのかな〜など思うっす。


前にも書いたけど、今の若い人に限らず、なんかよく、日本は平和な国だから、過激な行動とかはないし、とかなんとか言う人は多いし、実際ある程度そうで、大多数の人は疑いもなくそうなのだが、全面的にそうだったわけでもない。しかし、訳あって(多分)、こういうのを日本のマスコミはリマインドさせてくれないから、自覚的に思い出しておかないと自らの歴史を誤って記憶しそうだなとかよく思う。お若い方、特に。


70年前中盤は世相的に結構動揺していたという記憶が、当時小学生の私にはある。
後半は、中学生にあたるわけだが、事情はつまびらかにしないながらも、なんか、そういうカゲキハの人たちが飽きられていると感じていた。

それにつれて、大学生になったらガクセイウンドウをする人になるんだと信じていた小学生の私はどこかに行ってしまい、気が付いたら、なんとなくクリスタルの世界にいた。


連続企業爆破事件(wiki外灯記事


日本語版もあるけど英語版はどうなっているのだろうと見たら、
Japanese Red Armyの項もかなり詳しい。今だったら毎朝ウェブを覗くたびに日本人のハイジャックのニュースがあふれてたんだろうなぁとか思うと、当時海外にいた日本人ってどう考えてたんだろうか・・・。

そういえば70年代にこっちに来た人というのは結構いて、今じゃすっかりおじさんになっているけど、ある種の自虐性みたいなのが共通して見えるような気がしないでもないのは、実際日本に関するネガティブ事件が出回っていたってのも関係あるのかもしれない。考えたことなかったが、今度さりげなく聞いてみようかしら。怖いけど。