四川地震と「備えあれば」体制

天気が悪いのがいけないのか、自分が疲れていたのに気づかなかったのかその両方だろうが、先週末から酷い風邪を引いて本気で寝て、闘病生活というほどでは無論ないが、何か体力の衰えによって自分の人生を悲観したくなるような気配すらあった。ま、基本は丈夫でも寄る年波には勝てない年になってきたんだなぁとこのへんで真剣に思うためにこそ風邪引いたと思うべし、慢心はいかんよ、慢心は、と心に言い聞かせ、積極的にだらだらして養生してる昨日、今日。


そんな中、いやしかし、チャイナの今年は一体なんなんでしょう?春先の大雪といい地震といい、天に見放されてる風になってきている気がするんですけど。というと酷いかしら、やっぱりとは思うものの、でも、間に(というかずっと)のチベット問題をはさみ、それにもかかわらず聖火リレーという本質的に、どうでもいいじゃん、そんなのと言えばそう言えるものをネタに世界中の国というより、個人感情をずたぼろにしてみたりと奇妙な行動をしているところにこれというのは、偶然にしては随分と出来すぎの偶然ってあるんだなと思った。


しかも、地震の場所がチベットつながりというのも、えええ?だった。チベット系の住民の住むところだったというだけでなく、プレートとしてインド・オーストラリアプレートがユーラシアプレートを押し上げてるところ、つまり場所的にチベットというかヒマラヤ当たりというかの造山運動まだやってます状態になっているその根本的な意味が表現されているところ、らしい。神様って創造神だからさ、タイムフレーム長いんだろうから、現時点でもこの動きに逆らうのはご法度だったんじゃないのかと馬鹿なことを言ってみたい気がした。しかもダライラマは、その他世界の人間がなんといおうと、宗教界の人なのでチャネルがオープンになっていそうじゃないの、いろいろとか果てしなくいろいろ考えたくなる。