世界は広い。頭をあげる。

安倍首相のインド訪問の話をこもごも読んで、いやぁ、面白い世の中になってきたと思ってる。

外務省のサイトにあったインド国会における、どうしても安部ボンボンなど言いたくなるアベチャンこと我が邦の首相の演説はかなりよくできてると思う。

サブジェクトをまとめて、原文はきっと英語で書いて、日本語はその翻訳なんだと思うが、なかなか読ませるし、読み物としてではなく、現実の使用から考えるとさらにいいなぁと思う。短い時間に演説として、つまり、長々としたものを紙で配って読めというのではない手法で取り交わされるものとしてはちょうどよく、しかも実際の交流のポイントとなる人物の名前がきっちり配されていて、それでいて冗長でなく、しかも、ポイントポイントで感情的なもり上がりがあるようにできてると思う。いい演説だと思う。

「二つの海の交わり」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0822.html


で、これを受けて、いわゆる欧米としては、戦略的な評価云々とはまた別に、パール判事に会う、というところから、安部は軍国万歳だ→東京裁判で有罪になった男の孫なんだぞ→ほーらみろ、WWIIを反省してない男だ、どうだ、どうだ、という線で、安部ちゃんを印象付けたい気配だ。たとえば、東京裁判の判事の息子と会うという記事が独立で立っていたりするのはそういう意図なんだろうかななど思う。

Japan's Prime Minister meets son of Indian judge on Tokyo war crimes' trials
http://www.iht.com/articles/2007/08/23/news/japan.php


で、

Many Japanese nationalists idolize Radhabinod Pal, although several Indian historians argue that his stance in the tribunal was rooted in anti-colonialism and had little to do with war crimes committed by the Japanese.

日本人のナショナリストの多くはこのパール判事を偶像化しているが、インドの歴史家の中には、パール判事の基本的なスタンスは反植民地主義にあって、日本が犯した戦争犯罪とは関係ないと言っている、

などと、ある意味で手回しよく書き込んでいる。私としては、これはこれでひとつの見識ではあるだろうとも思うが、しかし、パール判事を反植民地主義の人物と書くことも、それはそれでインドもしくはその他世界からの異論もあるだろうなとも思う。なんとなれば、遡及法で裁くなって言ってるわけですが、という主たる、あるいは最も重要なクレームを反植民地主義の故とすることは、それは全くの矮小化だろうから。話は実際には近代世界にとっての根本だったりするのになぁ、なのだ。


とはいえ、おそらく、パール判事の問題は、今後そんなに突っ込まれていかないだろうと私は予想する(したがって安部ちゃん問題のこれに関する話題も小さくなるだろう)。どうあれ、欧米人(というか、西ヨーロッパ人)としては、インドを代表とするアジア世界に対する過去の処遇を今俎上に載せてみたい気はしないだろうから。日本とインドが同じテーマ内に出てくる話ぐらい欧米人を困らせる出来事はないかもな、など思ってみたりもする。対比的に、チャイナって、まるっきり欧米人の史観にとってこれ以上ないぐらい都合のいいアクターだし、そもそもそういう場だったんだからなぁなどいうことも思い出させられる。


で、今後長期的に仲良くしましょうねという相手がインドというのは日本にとって2重に良いと思う。
ひとつは、日本を含む先進国にとって重要な課題は売るべき相手、でっかいマーケットを確保することだ、というのなら何もチャイナばかりが世界ではない、と頭が冷静になれること。実際問題、エリートを中心とした上手くいってる部分以外のインドは常に混乱で、今後も混乱だろうが、対比的にチャイナにそれがないというわけでもない。

さらには、チャイナはチャイナ世界で終りだし、東は日本で止まってるが、インドってやっぱりどうあれ南アジアの盟主なので、とりあえず世界は広い。くどくど言うまでもなく、どこにもうまくいく保障みたいなのはまったくないし、むしろ混乱に頭を突っ込む可能性もあるだろうが、日本以外の東アジア世界には、今後、政体がどうなるかわからないという大きなデメリットがあるから、こっちにも混乱がないわけで全然ないので、大きな相違とは言えないないだろう。

もう一つは、国家の意思みたいなのをきちんと持つことが今後重要なことになるだろう、とすれば、それはチャイナ世界の中に頭を沈めている限り、おそらくとても難しいことをコンセンサスにできるチャンス到来か、少なくとも萌芽が見えるかしら、という点か。いうところの隣人であるチャイナは、いうところの隣人である日本を精神的に追い詰めることを隣国との関係の基本的な戦略の一部としているようだ。これは、共存とか共に繁栄という発想とは著しく異なるものがある。特に日本人にはまったく向いてない気は相当する。これがもたらす精神的な負担というのも見逃せない(負担はたまれば暴発する)。

過去を清算する、というのは聞こえはいいが、これは現実におとして見たとき、要するに、今現在生きている人、および今後生まれる人々に、生まれたときから生まれる以前に行われた自分以外の誰かの「罪」をずっと背負わせるという作戦と近接する。これは、しかも、日本にとって不都合だという話ではない。何年か前のサッカー場あたりで非常に多くの日本人および少なからぬ西洋人が気がついてしまったという感じかとも思うが、ユニバーサルに、混乱をもたらすのに最適な発想法だ。

つまり、個人aはたまたま集団Aに生まれたがために、集団Bに生まれた個人bに石を投げてもいい、という発想を許す。で、集団ABの中身はその時々で変化する。その中身が日本の時にはOKだが、中国共産党だったらダメと都合のいいことはできない。そして、いったんそれになじむと、なかなか法と秩序に対するリスペクトを個人の中に獲得させるのが難しくなるだろうとも容易に想像できる(ま、暴動こそ彼らの歴史といってしまえばそれまでだが)。

そういうわけで、とりあえず、具体的な実利みたいなものが見えないにせよ、チャイナと上手くやっていかないと「孤立」だというある種の教義みたいなのを恥ずかしげもなく書き続けることが今後は少しは難しくなるだろう。これだけでも、日本にとっては大きなメリットだと思う。

ま、要するに、日本のメディアがもう少し自主独立で考えてものを書く、短期的に誤りがあったらそれを認めつつ、ブラッシュアップして論を編むようなメディアだったらそんなことはどうでもいい話ともいえるわけだが、現状そうはなっていない。もちろん、今後は、視野世界が広がる分、私たちはですね、ますますお勉強しないとならないわけで、それはそれで大変だが、糾弾大会とお勉強のどちらを選ぶかといえば、お勉強の方がいいと思う人は少なくはないだろうと私は信じる。

いやしかし、いやしかし、この演説はうまい。それなのにこういう文を日本のメディアが喜ばしいとして取り上げていない模様であることに、私は腹を立てる。名誉というものがあるのなら、いいものはいいと言ってよ!