涼しい夜にログを取る

もう夏は終わりなんだろうかと7月20日に書いて以来1月たった。
日記になってない。もはや月記。やだわ。

そうして夏の方は、もうすっかり涼しくて夜間気温が15度を下回る日も珍しくない今日この頃。
いったい夏はいつだったんだろうか。正味1週間ぐらい確かに暑かったような気もする。

日本の友達は、暑い暑いといっているし、地球環境がどうしたこうしたと気候の変動の話を強引にそこに結びつける人もいる・・・。それを聞きながら、読みながら、しかし・・・とうなだれる私。フリース持っておたおたする私。靴下はいて、長袖着てる私。地球って広いもんだ。

去年の夏は今ごろ東京を歩いていて、街ごとサウナだとしみじみ思ったものだった。その数日前にはハンカチ王子のおかげでどこにもでかけられずにテレビにかじりつき、そのまた数日前だったかには靖国神社に行って、非常に静かにいろんなことを考えた。それから1年・・・。と、このあたりから書き出して何か書こうと思っていたのにそれも果たせず、日記は月記になっただけ。ログを取るのにどういう意味があるんだろうかと思いつつ、しかし、ログはログっている時にはたいした意味はないが、たまってきたとき、なんだかいろいろ思い返すよすがになるというものじゃないのかと思いなおしこんなことを書いている。


そういえば、今年の春日本に帰った時、小学校1年生、2年生の時の絵日記を発見したのだった。実家改装につき私のものはこの際いろいろ捨てようとはじめたバタバタの中で、廊下に座り込んでしばし真面目に自分の日記を読んだ。花マルとかもらって、先生のコメントもあって、きっと私は喜んで学校から帰ってきたのかしらとか思ってみたりもしたがそういう記憶はない。書いている状況も思い出せない。ただ、うっすらとした記憶では結構いやいやながら書いていたような気がするし、決して毎日は書いてなくて夏休みの最後にだーっと数日分書いていたような気もする。が、絵日記そのものはすこぶる楽しそうで、知らない人が見たら、毎日愉快に活発に、結構克明に書いていたと思うんじゃないかと思った。大げさだがこの乖離に興味を覚えた。要するに書かれたものとはそういうものだ、私のものであり私のものでない何かとなりおおせるのだというルールがただそこにあって、それは小学校の作文だって同じことなんだというそういうことなんだろうと、まったく大げさだがまったく真剣にそんなことを考えた。

さてしかし、なぜ書くのだろう? 書くという行為は余剰だという漠然とした感触はあるがそれがどういう意味なのかまとまて考えたことはそういえばなかったが、考えてみる価値は大有りだな、きっと。
涼しい夏(夏なの、これ?)の終わりはそんなことを考え考え日々を送ってみようかしら、など思う。

いやしかし、明日朝は、それでいったいカナダ経済は大丈夫なのか、おいおい、というせわしない話で涼しさもぶっとびそうな予感は大であるんだが。