防衛大臣、失言で辞任

日記というより月記になってしまった。頼りないログだわ。

と、今朝現地の新聞をネットで見ていたら、ふと右隅のリンクに日本の名があった。珍しいわと思いつつ見たら、日本の防衛大臣が核に関するコメントで辞任、だそうだ。


Japan's defence minister resigns over nuclear comments

http://www.theglobeandmail.com/servlet/story/RTGAM.20070703.wjapanresign0703/BNStory/International


何を言ったの?と思って読んだが、

Mr. Kyuma — who represents Nagasaki in the lower house — said the U.S. atomic bombings caused great suffering in the city, but otherwise Japan would have kept fighting and ended up losing a greater part of its northern territory to the Soviet Union, which invaded Manchuria on the day Nagasaki was bombed.


長崎はひどい被害をこうむったんだけど、だけどそんなことでもなかったら日本は戦い続けただろうし、結局日本の北半分の大部分をソ連に取られてたかもしれない、なんたって長崎に原爆が落ちた日に満州に攻め込んでたんだからさ、ソ連は、


といった具合らしい。このソースによれば。
これ自体として、ソ連に北を取られた可能性と原爆の関係というのは因果関係として直接的に推論できるわけではないと思うが、
早く戦争を終わらせてなかったらソ連が来ちゃったかもしれない、という並行事象を推論できれば、それなりに間違ってはいないと思う。少なくとも、そう考える人がいても何にも不思議ではない。

が、そこで立ちはだかるのは、
ではアメリカに原爆を落とされた方がよかったとでもいうのか、という見解なんだろうと思う。そして、それを被爆者の方々が代弁してしまう、ということに一応なっている。私は、これそのものにも多少の疑問はある。なぜなら、被爆者の人がみんながみんな揃ってこぞって言うところの被爆者関連団体の起こす声明と考えを同じくしているというわけでもないからだ。彼らが一致しているとしたら、もうこんなことは起こらないようにしよう、というそこだけであって、他人の頭の中の制御を行いたいという話ではないだろうと私は信じる。


で、この事件でむしろ私が、ほぉと思ったのは、ソ連が侵攻してきたかもしれなかったという線って、意外と日本の中の少なくともタブーだったりするのか、という点。

ソ連が来たかもしれない、と、アメリカの行動を正当化する、は別の話だが、それをつなげてしまう人がいる模様。
ソ連が来たかもしれないんだからさ、アメリカは早く勝負を付けたかったわけで、というと、じゃあアメリカの行動を正当化するのかぁ、他にも取れた手段はあったのにそれでも原爆を使ったアメリカは悪魔である、仕方がなかったなんて言うな!とならないと気が収まらない、と。


と、ここまで書いて日本の新聞を見る。
すると、

この日は他の閣僚からも批判が相次ぎ、溝手国家公安委員長は「どんな大義名分があっても、核を是認するような発言は慎むべきだ」と述べ、渡辺行政改革相も「適切な発言ではない」と語った。長崎市の田上富久市長らも3日午前、防衛省に久間氏を訪ね、発言の撤回を求めていた。

http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/news/20070703it05.htm?from=yoltop


ポイントが微妙に違ってた。
久間氏の発言は、核を「是認」する発言なんだろうか?
そもそも、過去にそれはあった以上、今是認するか否かという問題はありなのか?
多分、是認という意味が違っていて、今から後の存在を認めるのか、といった意味で「是認」なのか?
であれば、核の存在を容認するような発言は、というべきかと思う。

公明党の冬柴国土交通相は3日午前の閣議後の記者会見で、「2度までも原爆被害を受けた民族として容認発言は許されない。政治家として出処(進退)を考えるのが当然だ」と述べていた。

言葉の使い方としてはこっちの方が現実的で適切かなとは思う。


が、しかし、それにしても、許されないかどうかは異論のあるところではなかろうか。過去の行動の意味についての見解を述べることは、現在以降の核(兵器)の存在を「是認」すること同義にはならないだろうし。
(そもそも、問題は存在論(この使い方はうそね)ではなくて、使うか使わないか、使わせないためにどうするか、だ。)
それでも尚異論はまかりならんというのなら、後者の発言は、米軍の行動を正当化するような発言は許せない、ということか。

それはそれで一定の理解を得られる発言だとは思う。日本だけでなく、多分アメリカを含む世界的に。
ただ、これにしても、今それについての「正統」な見解を引き出す必要が求められているともいうのでなかったら、別に「許されない」というものではないと思う。上から見てきた通り、ソ連との駆け引きを考えたら、と考える人がいても不思議はないし、今さらどういっても、と考える人がいても不思議もない。

割と真面目に思うわけだが、これは、つまり、日本とアメリカの間に波風を作戦その2なのかな。

久間氏は6月30日の千葉県柏市での講演で、第2次大戦で米国が広島、長崎に原爆を投下したことについて、「あれで戦争が終わったという整理の中で、しょうがないと思う」などと発言した。その後、与野党から強い反発が出たことを受け、「核廃絶と、広島、長崎への原爆投下は許せないとの姿勢は微動だにしない」と釈明し、陳謝した。首相も久間氏を厳重注意したが、批判の声は収まらなかった。


久間氏は、過去の一事象を説明するための推論のひとつのブロックとしての原爆の使用の意味、つまり、

米国に対しては、「勝ち戦と分かっているときに原爆まで使う必要があったのかという思いがするが、アメリカは恨んでいない。国際情勢や占領状態からすると、そういうことも選択としてあり得る」と語った。


から一段ヒートアップして、
核廃絶と、広島、長崎への原爆投下は許せないとの姿勢は微動だにしない」
になっている。

私は今も原爆を投下したアメリカを許していない、とわざわざ言い放ったわけだ。

それはそれで個人の心情の表明としてはもちろん全然いいし、私も許してなどいないわけだが、それで現在の日米関係を規定するわけにもいかないことは、防衛大臣ではない私でもわかる。
ということは、こういう発言に落ち着いたところで、この人は今現在の防衛大臣にいてもらっても困るので(それはそれとして、という発言を切り取られてしまったにしても、そのうかつさというのはある)、ここで首になるのはやむをえなかっただろう。


で、結果がこれ。


久間防衛相の後任に小池百合子
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070703it11.htm


果たして適任なのかどうかまったくわからないけど、久間氏のように迂闊なことを言わなそうだ、とは思う。
そういう意味では、政治的な防衛大臣の路線かもしれず、むしろ現場は、OKなんじゃないのか、なんても思う。
考えてもみなかったが、現代では、このポジションは、戦略やら戦術やら持ち物やら戦史やらを自分で分析する人は置かないのが正しいのかもしれない。ちょっと前にやけに詳しい、または、オタクとされる防衛庁長官もいたような気がするけど、あの人もどうかなぁだったでしょう・・・多分。

しかしなぁ、あまりにも現場から離れると、そうするとまたぞろ、いわゆる文民統制能力の欠如という、日本が辿った路線のうちで最も反省すべき点がまたもや怪しくなりそうでいやだ。理想的には、実戦派ではないが重しになる人、ということか。防衛大臣という単体ではなくて、要するに今って、日本にとっての防衛がらみの位置づけ確立期なんだろうと思う。


なんてったって、ついこの間まで、日本の自衛隊は軍隊ではありません、と本当に真面目に真剣に心から、確固たる学歴の優秀な人々が語ってて不思議もなかった国だ。