ダビンチ・コード再び

まったく時期を逸した話なのだが、ダビンチ・コードの映画を見た。
本を読み終わったのはログを見ると去年の12月なので、まったく遅れてる。
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20061215#1166160283

さらに、映画を実際に最初に見たのはもう2ヶ月ぐらい前なのに今頃書く。書きたくなるのは、そのとき見て、あれ、本と感じが違うんですけど・・・と違和感を残していて、折々にその違和感を思い出し、それは私の本の読み違えもあったのかなとか、映画も1回ざっと見ただけなので見落としがったのかとか自分の中で収まりがつかなかったので、再度熱心に見たというなかなかの取り組みを実行したため。今回は、映画を途中で止めて本を読んで確認するという熱心さで向かった。そんなに好きだと思っていたわけでもないのに、何か、どうもこだわってしまうらしい私はやっぱり陰謀論好きではあるんだろうと思う。

ダ・ヴィンチ・コード〈上〉
DVD>決定版!ダ・ヴィンチ・コードの秘密 ()


違和感は、私の場合は、プロットの問題よりも、まず、トム・ハンクスロバート・ラングドンだという点が大きかった。
本を読みながら主人公を誰かに置き換えて想像して読むという習慣は特にないので、この本は私にとっては特殊だったと言うべきかと思うのだが、私はこの本を、極端な話最初っから最後まで、ハリソン・フォードが動いているものとして読んでいた。だから、いきなりトム・ハンクスに動かれると誤差の修正が難しかったのだと思う。

どうしてハリソンかといえば本の最初の方のラングドン教授の描写の中に、ハリソン・フォードみたいなと言われているとかなんとかいう下りがあって、その下りで私は、そうか、ではなくて、やっぱり、と思ったのだったから。なにがそうかといえば、本の出だしで、すでに、なんかこういう感じという映像が私の頭の中に降りてきていたからで、その映画とは、Frantic
http://en.wikipedia.org/wiki/Frantic_%28film%29

という、ハリソン・フォードとしてはB級中のB級なんだと思うし、実際BーC級の話だった話。つまんないといえば限りなくつまらなかったのだが個人的には記憶に残っていたらしい。この映画と、ダン・ブラウンのダビンチで何が共通しているかといえば、アメリカ人の著名な学者だかなんだかがパリのホテルに泊まって、そこで事件に巻き込まれるところから物語が始まる、というだけで、これ自体ほかにもそういえばあるよなというものなので、似てるといってしまうのははばかられるようなそうでもないような・・・。

私の勘違いだ、といってまったくいいわけだが、でも、本の中でわざわざ、ハリソン・フォードの名に言及があるとうことは、原著者ダン・ブラウンはこのマイナーな映画を見たのじゃないのかなど思ってみたりもする。

しかし、じゃあ、どうしてハリソンで撮らなかったかといえば、やっぱり年とりすぎ?ってことだったりするのかしら。DVD版のおまけのインタビューでは、ダン・ブラウントム・ハンクスで完璧だったと上機嫌で話していたけど、そりゃ、やっぱりハリソンがよかった、とは言わないでしょう、普通。


と、そういう些細なことはともかく、違和感があったことは単なる勘違いではなくて、やっぱりいろんなところで微妙に本とは違うということが今回確認できた。いずれも微妙といえば微妙なのでどれが大きいのかは一概には言えないのだろうが、微妙の集積として、つまり結果的に、本の中では比較的丁寧に網羅されているテンプル騎士団関係が、言語による表現ではなくてビジュアルでちょっとおどろおどろしい感じで扱われていることにより、結果的にはさらっと流される方向で処理されていることか。

また、本のラングドンは、言うところの陰謀論マグダラのマリアジーザスの血統、ローヤル・ブラッドラインは続いているんだ、という話にほぼ理解を示す学者なのだが、トムハンクス演じるところのラングドンは、知ってるけどそれに対しては懐疑的というか、いわゆる学者的というか、まぁねそういうお説もありますが証拠はないわけですよ、といった態度に出ることが多い。

と書いてみて思うのは、やっぱりそれは、本への反響(非難)が大きかったことから基本ラインは崩さないけど、そもそもそういう話って法螺だからという三歩引いたような格好で映画にしちゃいましたということなのかなと思ったりもする。

なにしろ、バチカンのみならず、各国で実際ちゃんと(?)それに応じて反応が起きていたらしくあるし、実際、こういうのってカトリックを馬鹿にしていると(どこまで本気なのかは知らないけど)怒る人がいるという現実があるので、映画配給となったらそうなるしかないということなんだろうか? 

日本版のwikiは実にあっさりだが、英語版のwikiは、映画と本の相違点から、各国の反応まで盛りだくさん。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Da_Vinci_Code_(film)


上のwikiによればトム・ハンクスは基本的にはこういう映画を批判する人々に批判的であるようだし、こういう話によって自分も妻も宗教的に揺らがないぞ、みたいなことを言ってるらしいが、しかし、私が今日検証したところによれば、本から見たら、ものすごーーーく「保守的」なラングドンになっているともいえるわけで、こうなったのはプロデューサー、配給の見解だけなのか、それともハンクス側も、ここまで過激な態度は取れないといったりしてないのか、なんてことをちょっと疑問に思いたくはなった。エージェントとの話あいで譲れない一線を敷いた、とか、そういうのありなんじゃないのかしら?


ラングドン教授が保守派になったおかげで、映画の核であるところの陰謀論を大幅にはしょられているとはいえ細かく論じるのは一人、イギリス貴族のティービングだけになってしまっている。で、ティービングの役は、サーの付く俳優というべきか、ゲイの権利に熱心なおじいさんというべきか、はたまたロードオブザキングの魔法使いというべきかのイアン・マッケランなのだが、マッケランは、ダンブランがうまいもんで本を読んでいた時にはあたまっから信じて納得してたけど、後で考えてみてそりゃ違うわなと思ったと去年のインタビューで答えているらしい(上のwiki)。

しかし、バチカンの高位の聖職者たちがこの映画をボイコットするべきだと騒いでいるといった事態に対しては、「しばしば思ってるんだけど、聖書は最初のページに『これはフィクションです』と免責事項(ディスクレイマー)を入れるべきじゃないの?」とも言ってるようで、基本的に、嵌った役だったんだなと再度確認。

そして、こう眺めてくるとやっぱり、そう出る役者がイギリスを背中にしていて、いくらこういうのはおかしいですといっても、「過激さ」が薄められた主人公はアメリカ背景(そもそもアメリカ人の映画だが)で、多分これは逆にはならないだろうというのは何か物語るものがある気がする。


<妥協プロットだからなのか・・・

上で、ラングドンは「保守派」になっていると書いたが、しかし、実際には別の意味で「つっぱしった」ラングドンになっているとも言えるのがなかなか微妙。というのは、本ではシオン修道会、オプス・デイ、テンプル騎士団関係のディティールに大きなバリューがあるのでその動きを追うことで読者は結構満足する(と思う)。なので、ジーザスの血統が残っていて目の前のこの子がそうかもしれないんだなぁという点は、読後感としては、まぁそれはそれ、ということも一応言える。が、映画ではシオン修道会以下の記述を大幅に削ってしまったもんで、他に見せ場がないのか、あるいは、どうしてもホーリーグレールを探す旅の結末を作らないと物語とししてわかりやすくないからそこしかなかったのか、最後の最後で、ラングドンが、見せ場を作ってソフィーにあんたが生きてる唯一のイエスの血脈の末端なんだと宣言?しなくならなくなっている。


こ、これは私としては、最初に見た時も、げ?という感じだったのだが、上のwikiによればカンヌ映画祭では爆笑されて、最後にはブーイングだったそうだ。笑いたくなる人がいても不思議ではないと二度目を見た私もそう思う。なんか、安いよ、ここぉおおおと思わざるを得なかったの。

ただ、笑い出すというのは、ある意味で、耐えられない緊張を解除したとも言える気がしないでもないので、結構深層的には興味深い反応のような気もする。なんか、これってヤダ、という反応だったのかもしれないなど一応言ってみたい。でもやっぱりこれは、妥協プロットだからここにしかポイントが置けなかったから、筋に深みがないからなおさらここが浅くて、安くなったんじゃないのかと思う。ただ、目いっぱいシオン修道会やらオプス・デイを語って結末はあなたのお好きに考えて、だったら、その方が態度としては理知的だとしても、一般的な娯楽に仕上げるのは難しい上に、訴訟の嵐になっていたのかとも言えるわけで、むしろ、笑ってもらえるぐらいで丁度いい、だったのかもしれない。

いずれにしても、私の評価としては本は面白かったけど、映画はなぁ・・・という感じかと先月まで思っていたのだが、見直した結果としては、別モノとして楽しむんなら映画は映画でいいのじゃないのかなと思った。話のつじつまがあってないところは音楽とCG効果が雰囲気をバックアップしてるから(その結果、ソフィーとラングドンが考えて考えて解いていくパズルが雰囲気で超自然的に解けている気がするのもなんだが)、最初っからこういうものだと思えば、雰囲気で鑑賞できるかもしれない。(ぜんぜん褒めてないか、このコメントじゃ。)


今度は遅ればせながらデコード編を読んでみようと思う。その次は夏から秋に向けて観光ガイドがてらのダビンチ・コードの場所紹介ビデオというのもいいと思う。これって、まったく次から次からいろんなパッケージが出てくるなぁと思っていたけど、こうやって2,3年経ってもまだ読んだり見たりする人がいるんだから、やっぱり大当たり企画だったのだとしみじみそう思う。言い訳がましいが、しかしながらこの手の話は西洋文化圏の人と話をする時には共通の話題としてやりやすい(私が説明される側なので)ので、誰でも頭をつっこみやすい。で、売れる理由もそれなんだろうと思う。