アンチ

石原慎太郎さん、3期目当選おめでとうございます。

サプライズは全然なく当然なるようになったとしか思えなかったので感慨めいたいものはないんだが、でも、この人の強さは尋常ではないとはあらためて思った。まずなんといっても、日本の主流メディアが総がかりでも倒せなかったという点はあらためて注目か。小泉純ちゃんの時もそうだったが、むしろそうなるとさらに上積みができるという傾向さえあるように思う。つまり、今後は反メディア票分を読むべきじゃないかという感じ。


今回の票も、総得票可能数500万として、石原可能分が300万ぐらい(これは前回のという意味だけでなく前々回のいわゆる保守系の足しこみでそのぐらいあるから)、そこから多選、高齢、いうところの私物化がどうしたという批判で穏当に1割、最大2割落として240万。多選、高齢の候補者なんだから批判票がないと考える道理はあまりないので(動きのある選挙になれた都民であることもあり)、このぐらいは見込んでいるんだろうと思ってみていた。

でもこれでも半数近いから落選という可能性は非常に少ないが、これだと万一はあるはず。が、現実は280万。この差異はといえば、反メディア票、つまり、戻り分だったんじゃないか、など思ったりする。

日本人って文脈を読めない人ばっかりではないので、あるメディアが公平を装いつつもなんだかこっちばっかり応援してるな、というのはすぐにピンと来る。それを、メディアが押しているから私もこっちという直の反応で捕らえる人(上が言ってるからいいみたい、みたいな)もいる一方で、それを負として捕らえる人も増加しているということ。当然日ごろの当該メディアに対する反発の度合いがこの相反した行動を決するんだろう。


とはいえ、慎太郎氏の場合はそれら諸々があろうがやっぱり圧倒的に強いというのは疑いようもなかった。対抗馬としたらどこから手を出してもとても難しかっただろうと思う。が、多分、最悪の戦略は、アンチで戦おうとしたことではなかろうか。そして、一般的に考えられるアンチ戦略の始末の悪さに加え、この個別のケースではさらに別の事情からもアンチ戦略はナンセンスだったと思う。

この人は何よりもまず東京と一体となったような人だ。つまり、名のある作家だった時代から国政の政治家になって都知事になってというそれらすべての時間をこの人は東京都民と一緒にいて、東京という名前の付された位置にある。さらには子供もみんな都内で育って都内に住んでるようだから、ご本人の小さい時を除けばずっと東京都に運命を共にしてきた、みたいな人だ。道路も電車もバスも建物も木も土もみんな知ってるみたいなおじいさんだし、少なからぬ都民の石原に対する記憶はそれら具体的な事物の間にしっかり残っているだろう。

その上で、今現在の東京は課題は多いにしても別に破壊的な状況にあるわけではない。それどころかとりあえず財政は再建してきたし、公立高校復活の兆しもめでたい。足らないものはまだまだあるにせよ、アイデアは出され、この先のビジョンを提出して検討できるまでの精神的な余力も出た。地下鉄サリン事件の頃から考えたらなんという差だろう、などと言っても間違ってはいないのじゃないかと思う。

こうした状況で、「反石原」をテーマに据えるというのは、私にはあまり賢い戦略には思えない。基本的な現状、方向が問題だと感じている人はそう多くはないだろうからだ1)。であれば、石原の東京を越えるアイデア、ビジョンを提示することしか争点はないのじゃないのかしら?


そうして、少なくとも東京が好き、東京に災いなすものは断固なんとかせにゃ、と思っている人を出してくれなきゃ話にならない。この一点において今回の対抗馬は殆どその資格さえなかったようだ。

何が悲しくてこんなことを言うのかわからないが、浅野候補の敗戦の弁は、敗者を讃えようという気さえ起こさせなくなるものがあった。

敗因について「石原都政の実害を受けている人は限られた層だということ。それが一般に広がらなかったのが この結果だと思う」と述べた。「石原都政が信任されたということならば、このまま4年間を進めていけばいい」。 今後の都政に注文を付けることはなかった。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070409k0000m040126000c.html


ごく一部の人の意見を尊重せさせることを主たる目的にしている人を首長に選ぶセンスは都民にはない。ごく一部の人の意見を尊重させるためには、都議会議員の一人となって、誰を代弁しているのかをはっきりさせて言を編むのが常道だ。それなら誰も文句はない。何を考えてるんだろうかこの人は? さらに「進めていけばいい」というこの投げやりとも取れる発言はなんなんだというのも頭が痛い。官僚なんだろうなぁ。

私はみなさんの審判を厳粛に受け止めます。しかしながら私は私が提案したXBCを今でも大切なことと思っています、それが残念です、といえるだけのXBCが実際何もなかった、ということでもあるだろう。これがアンチの限界。


1)について。

 投票前の世論調査では「都政が大きく変わってほしい」という人が6割にのぼった。石原氏は今回の知事選には低姿勢で臨み、公私混同などの批判に対して反省の弁を繰り返した。それが功を奏したといえるが、この「変身」を選挙向けの演出で終わらせてはいけない。

http://www.asahi.com/paper/editorial20070409.html#syasetu1
(9日、朝日社説)

このアンケートを私も見たんだが、都政が変わってほしい、というのは実際問題どうとでも取れる。もっと強硬にプランAを、というのも変化だし、もっと別のプランBをも変化だ。これを石原でないように都民が望んでいる、と読み込んで議論の枕に使うのは朝日フィルターがかかっているから仕方がないんだが、反石原にしたいがための、はっきりいえば「まやかし」だ。この作戦で負けたのにまだやってるということは、反マスコミ票が今後さらに増加するだろう。


どうでもいいことだが、石原氏は「低姿勢」になったというのは、都民からの批判をかわすため、とでもいいたいようだが、低姿勢というか、メディアに吊るし上げられて、いらないところで脚をひっぱられないための作戦じゃないのかと思うんだが。つまり、あんたら対策だ、といわんばかりのことをやられて、それで負けたのにまだ気づいていないということなのか、朝日、などとも思う。



で、そもそもアンチでは駄目だ、という点をはっきりさせておく必要がある。
批判とかルサンチマンでは勝てないというのは、去年のカナダの総選挙もまさにそうだった。どうしてそこまでくそみそに言うかというほど保守党を叩いて、現与党リベラルが負けた。比較的長期政権の現在与党が野党にアンチをかけるというのも極めて珍しいケースではないのかとさえ思えるのだが、それ以来、リベラルにまとまりがなく分裂がはじまって、その結果として党内事情で党首を選んだこともあり、可能的な支持者にとっての同党の存在感は、たった1年とは思えないほど弱いものになっている。


なぜこうなるのか。あるいは、なぜアンチで戦うと分裂をもたらすのかというのは、別に難しい話ではない。対象Aがあれば、それに批判的な人というのはどうあれ存在する。そしてその理由はまったく別々であっても批判、アンチ、反であることには変わりはない。極端にいえば誰でもアンチにはなれる。だから、手っ取り早く数は集まるし、誰かを好意的に迎えるという姿勢よりも、人間悲しいことだが、誰かを攻撃的に叩く方がエネルギーが集まりやすい。

しかし、現実には何でアンチなのか、というのは各派各人それぞれなのだから、一見まとまっているようでもどこかで常に分岐している。革命が勃発したら必ずその後内紛が起こって、その内紛はしばしばその革命がターゲットとしたものよりも多くの人に害をもたらす、というのはよくある話だろうが、そこまでいかないにしても(行ってもらっても困るが)、一般的にいって、アンチである限り、内紛は必至なのだ。

別の言い方をすればせいぜい、負けている間、つまりアンチでいられる間しか統合できない。なぜなら勝利した瞬間から、アンチの存在理由であったターゲットAは存在せず、アンチ同盟は次のフェーズに移るしかないからだ。あの人は駄目な人でしたとAを言い募りつつ終わる、という極端な状況が許されない限り。

いや、それはない、私たちはすべて一様にアンチだ、というのであれば、それはそもそもアンチではない。別の何かを立てようとしている人たちのはずだ。しかしそれでは人が集まらないからアンチに流れ、対抗Bを支持しているわけではないが、ターゲットAにはアンチだという人を募る・・・。つまり、アンチを構成しようとする人々または団体とは、そもそもターゲットAに対して単体で勝てる見込みがないからこそこの戦略を取るとも言える。

したがって、分裂をした場合には支配的なグループを比較的穏当に出せないという弱点をそもそも内包するから、勝利後の分裂への可能性はさらに高まる。

さらに、アンチであることがもたらす攻撃性もこれに拍車をかけるし、アンチであることの条件には自分は責任を持って何かを選ばなければならないから選ぶ、という行為は含まれないから、永遠にノーをつきつけるのを楽しみにしてしまう傾向[のある]人々[を]も内包する。他者と合意して進むという意味を自分のこととして獲得できない。


そういうわけで、ずっと政局、ずっと揉めることを楽しみにしている人でもなかったら、アンチで勝ち抜こうという人々の集団を積極的に支持できる理由はない。そして東京はそんなことをしながらやっていけるところでもない。なるようになったんだなとか思う。


ま、その前に、ここで書いたアンチがもたらす分裂に継ぐ分裂の分裂、究極はみんな勝手にと来たもんだ・・・というのをやってきた人々が実際都内にいるわけで、全部ではないが古い都民という人々はそれを知っている。だから、そっちの方向への踏み出しだけは絶対まかりならんという決意は他自治体に比して堅いのじゃまいか? (対比的に地方によってはその感じをおそらく今後味わうという成り行きになっているのではないのかと思わせるものもある。アンチ現職で勝ったはいいけど・・・ってやつ。)

それなのに、ああそれなになぜその人々が前に出てくるのよ、というのが私には奇妙でならなかった。