正気にかえる:運命の息子たち

先月決めたとおり、ぼちぼちジェフリー・アーチャーを読むの企画を続行中。
どれから読んだものか、年代順にしようかなと先月決意した時には思っていたのだが、本屋に行った時に、あ、年代順がわからんということに気づき(調べていけよ)、どれでもよし、と一冊を手にする。以降この方法で行くしかないか、それともまだ3冊しか行ってないので今後年代順に修正したものか悩む。

と、今回読了したのは、これ。

SONS OF FORTUNE

Sons of Fortune

Sons of Fortune


邦訳は、運命の息子・・・・だそう。う〜ん、「運命の息子たち」じゃだめなんでしょうかね。やっぱりこれは2人の話なのでどうしても「息子」には違和感が残る。しかし本屋さん側の見解もわからなくはない。1つの単語に対して複数かどうかが気になる、またはその示唆がないとへんな気がするという発想は、日本語環境にあっては普通ない。だから「息子」でもいいでしょ、ということであったかと思われる。知らないけど。

運命の息子〈上〉 (新潮文庫)

運命の息子〈上〉 (新潮文庫)

運命の息子〈下〉 (新潮文庫)

運命の息子〈下〉 (新潮文庫)


それはそれとして、いやぁ、なかなか読みどころ満載の本でございました。2002年に出たらしいけど、とりあえず1949年生まれの男の子2人のクリントンとブッシュが選挙で戦うあたりまでのお話なので、今からすると非常に昔っぽいところからつい最近までカバーされていて、そのへんの歴史的な成り行きを思い出しつつ読むという読み方でも面白い本だった。

特に、ベトナム戦争あたりの話は書かれていること以外に読者がいろいろと想像したり、人によっては思い出したりできる(したくないとしても)ものだろうと思う。こういうある種部外者が書いたものというのは、当事者が書いたよりもピクチャーをつかむにはいいかもな、などと思った。
ジェフリーは何もわかっちゃいない、とか、そんな話じゃないんですよ、等々の批判がきっとアメリカであったに違いないなど想像する。


ベトナム戦争というと日本では、アメリカの若者が戦争に反対した話、以上、で定番化されている節があるが、それは、例えばそれが善であろうと悪であろうと、それとは別に、1つの国家が戦争すると決めてその中に含まれる人に徴兵のお達しが来たとして、さあその時どうする、というのはそこに置かれた人にとっては生死にかかわる深刻な話なのだというのを忘却させてしまう悪い、誤った括りだ。

生死にかかわるのは自分だけでなく、自分が拒否したとしてそれにもかかわらず行く人もいる。だからみんなで行かなければいい、と言い出したところでそうはうまくはいかない。行かねば自分の側の誰かが救われないかもしれない局面もある。とモラルのジレンマは尽きなかったはずで、いうところのヒッピーっぽい人とその他の人との対立が存在する大きな理由のひとつは常にここにあるだろう。しかし全体としてみればそれをおおっぴらに開けるのも嫌なんだろうと思う。しかし、それにもかかわらず大きな選挙のたびに候補者の過去、ベトナムの時どうだったかは他の何ものにもまして厳しく問われている状況はある。人々はどうしても気になるし、ここで審問にかけているといってさえいいかもしれない。つまり、ベトナム戦争アメリカの若者は反対した、以上、なんかでは全然ないのだ。


と、実際問題小説としてはそこにテーマがあるわけではないし、記述も大雑把ではあるんだが、とりあえずじっくり考えながら読むと、そういう状況にあっての人々の気持ちというのをいろいろとシミュレートできる機会が提供されてはいる。


もう1つ戦争にからむ話で、こっちは小説の最後の最後までひっぱって、ある種の謎として効果的な働きをしている。実のところ小説の真ん中へんで中だるみしてきて、なんかテーマがない話だよなぁ、どうせいっつんだろうか、この話はとだれてきたりもしたのだが、私としては、この謎(というほどではないが)が解決されていないんだから何かあるんだ、と励ましつつ読み進めた。


★★読んでない人は、これ以降をお読みになるとネタばれで全然つまらなくなりますので、ここで引き返してくださいませ。


それは、2人いる主人公の1人の奥さんになった人がコリアン系のアメリカ人で、この女性がハネムーンでソウルに初めて行って、自分の母親の親戚を尋ねあるくところから始まる。で、すぐに、この女性がそこで発見したあることを泣いて亭主に打ち明け、以降それがずーっと語られない。


この亭主はいろいろ紆余曲折があって政治家として立候補する。その時、非常にダーティーな男が立ち現れ、この秘密をテレビ中継で暴露する。


悩む。・・・・やっぱり書いちゃいけない気がするので詳細はやめるけどその秘密は戦争と売春に関係がある。


で、その秘密が思わぬところで暴露されるわけだが、アメリカ人たちの反応はようするにその暴露した男または党派の方をダーティーと考える。架空のアメリカ人たちを褒めても仕方がないのだが、よかったと思ったし、同時に、でもこれって普通なんだよなとも思った。考えてみれば別に架空じゃなくて、またアメリカ人にも限らず、私たちが多分何十年も何百年もやってきた騒ぎ立てと取り成しの方法論だよな、と私は思った。つまり、それは多分誰かにとって言いたくないだろうと思われる事件だからこそ、どこかで知ったとしても知らないことにしておく類の話だ、と。


ジェフリー・アーチャー自身は政治的なキャリアに関してはあんまり褒められたものではないとの説もある、というか、それが定説か?というところらしいが、道徳的な問題についての線の引き方は保守派のおじいさんだけのことはあるし、この人がどうあれ読まれているということはその引き方が多くの人にとって安心できるものだからなど言ってもいいかとも思う。


さてそこで現実に戻って、どうしてもここ数年か10年、しかしとりわけこの2ヶ月のことが思い出されないわけにはいかない。個人的にはよりによってどうして今私はこの本を読むことになったのだろうかとちょっと不思議な気さえした。

そして、一体全体、なぜ、かのようにダーティーな手法を取る人が世の中にいるものか。私はそういわずにはいられない。

しかしながらこのダーティーな人々はダーティーな人々がそうであるようにダーティーな方向には頭はいいのだろうとも思った。なぜなら、多くの人はこの手の話を普通おおっぴらにやりたくはないからだ。それは自分が傷つくとか嫌だとかいう発話の形を取るかもしれないが、実際の心理経過を支える肝心の動機は多分それではない。それは、誰かの心を傷つけることになりそうだし過去になってしまったことを掘り出してもその個人の慰めにはならないことを多くの人は経験的に知っているからだ。


個別の少数の特定のおばあさんはこの手法で自分が救われると確信しているらしい。しかしそのために世界中で、多分数え切れないほどの人々はこの事件から目を逸らし、耳を塞いでいることだろう。そしてその中には多数の、おばあさんとその支援者が同胞とみなす人々が含まれていることは疑いもない。


●「ジェフリー・アーチャーをぼちぼち読む」プロジェクト
(1)南下とケインとアベル
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20070218