昔のフレームが出ています

昼間3度で、これから夜半に向かって−11度まで行きますのでご注意をと言われてもどうせいっちゅうんじゃ、というトロント

さて、昨日アメリカの下院で発言してくれたローラバッカー議員について私は以下のように書いた。

ちなみに、wikiによれば、同議員は、不法移民に対する揺ぎ無い反対者らしいし、チャイナの最恵国待遇も気に入らない模様で、気候変動が人間の行動によってもたらされたという考えを信じていないらしい。


これだけ読むと、気候変動、あるいは環境問題について何か頑ななへんな頭を持った人なのかとの疑いを持つこともあると思う。もしかしたらそうかもしれない。が、もしかしたらそういうことではないかもしれない。

と昨日ちょっと自分の文章に対して自分で気になってはいたのだが、さっきご飯の時間に、まぁ丁度、あららら丁度というケースを耳にしたのでメモがてら日記を書く。

私がしばしば、左翼チャンネルと言及する例のTVOの目玉番組たる「The Agenda」の本日の議題は、まさにその環境問題だった。
(次に行く前に、左翼チャンネルといって揶揄するほど酷い局ではないので注意。傾向はそうだが相当ましだし、アジェンダはその中でも見る価値のある左っぽい人々がしばしば登場する。毎日面白いとは言わないが、だいたい価値はあるだろう。個人的に好まないことも多いが。さらに、司会のスティーブ・ペイカンはいい。こういう人が司会でニュース解説番組ができるなんて、これはカナダの持つ大きな幸運の1つだろうと私はかねがね思ってる。カナダから何か日本に輸入するならまずはスティーブをといいたいぐらい討論に対する結構な才能と情熱のある中年男性だ。)


で、本日(2/22)のお題の一部は、例えば、こんな具合。

Can capitalism survive the environmental challenge?
http://www.tvo.org/cfmx/tvoorg/theagenda/index.cfm?page_id=42


資本主義は環境保護的な課題を生き残れるのか、って書いてあるけど、本番では、資本主義vs 環境主義と言っていた。Capitalism vs Environmentalism だそうだ。どちらも主義がおかしいならどちらも同様に体制と読み替えてもいいだろうが、なんせこの対立って、へぇ?と、私は思う。

で、番組の冒頭の議論の枕は、経済が大きくなってきたが私たちは幸せになったか、アメリカ人は幸せになったか、とか言い出す。

環境にケアをしながら、といったって、あーた、それにも技術は伴うわけで、あるいは既存の技術にしたってそれを施設するにはお金がいるわけで、それをキャピタリズムとの対立項でなんかできるんでしょうかと、おそらく大人の多くはそう思う。

RRSPの締め切りまで1週間をきったぞ、ちゃんとやったけか、に大人は忙しい。RRSPとは、退職に備えた年金の登録積み立て強制貯金めいたいもので、これは税金控除の対象になるのでみんな真剣。で、これは当然ようするに投資にまわって、そのおかげで利息が付くんだよね、みんな!

話をかいつまんでいえば、要するに、これって30年前なら、環境主義の変わりに、社会主義、その前なら共産主義という名前がついて同じように討論されていた枠だ。

しかも、これでもまだ、ま、とりあえず行き過ぎた部分をどうしたらいいでしょうか、ぐらいのアプローチならまだ価値がある。が、どうしても、アメリカは、と言い出したくなるのがカナダの性とでも言うのか、どうしてもそこに落ち着き、結局何も出ない。

そもそも環境問題とは当然に地球規模の問題なわけだが、ほとんど常にターゲットとして糾弾されるのはアメリカ、というのは、東アジアに根のある私としてはまったく納得できない。アホなのか、あんたらとさえ思う。止めなきゃならない、少なくとも大きな注意を払うべき対象は、世界の陸地面積のでーっかいところを支配する、この大陸でないところにある2つの国ではないの?と思うわけだが、そうはならない。そうはならない代わりに資本主義を叩く。ああ。

このことは若干の相違を含みつつも、アメリカの環境大事派も基本的に似た議論(になってないが)の枠組みを取っているといっていい。つまり、環境問題@北米は、その大義にもかかわらず、なんかへんな取り組みに足元を救われる傾向が大いにあるという点を知って見ないと、表面だけの、環境フレンドリーか否か、では主体者の真意なり置かれた状況を見失うことがあると思う。


このへん、核兵器はよくないですよぉ、と言ってると別のフレームに勘定されちゃう日本と似てる。なんていうんだろう、こういう状況。看板架け替え主義、つまらんな、新しい暖簾を買って中身は同じ。フレーム同じで塗装が違う、羊頭狗肉主義、古いワインに新しい皮袋主義とか。


ただし、これはカナダに限っては、回りまわって害は小さい。なぜなら、隣との差異を際立たせることでカナダ、カナダ、カナダにして行こうというある種のカナダ主義に寄与するし、一方で、どうやってもアメリカと離れることはないからそのカナダ主義は強いぐらいで結局相殺されるから。これも1つのカナディアン・コンテンツ問題かもしれない(これについてはそのうちまた別途)。

問題は、こういうのが特定の地点カナダを離れて(なんせ英語でやってるもんで)、世界中のインディなんとかとかかんとかに流れて行った場合だと思う。それらの受け地にとっては、単なる無意味な反米による反米のための反米拠点になってる可能性もある(もし陰謀論を書くなら、だかこそカナダで常にこういう議論をさせる、というのは実に有効だとさえ言えるだろう)。