南下とケインとアベルの物語

冬といえば冬眠というわけでもないが、なんとなく日記を付けるのが面倒に感じられて日記だけ冬眠していたような具合かしら。

その間、いわゆるお正月の日付には、私にしてはまったく珍しく、というかまったく初めて、いわゆるもクソもなく文字通りの、正しい北米のバカンスを敢行。南に行って1月最初の週にカリブ海で泳いだ。頭で考えればあったかいんだから泳いで驚くこともなく、それを目的に行ってる以上何を言う、なのだが、やっぱりしかし水に入った途端、全身から笑いがこみ上げた。1月だよ、1月ぅおおおおおお、みたいな。しかもここトロントはその頃は暖冬と言われていたとはいえ(そこからの1ヶ月で人々はすっかりそんなことを言っていたことを忘れて体感マイナス29度とかいう温度を例年通り楽しむはめになった)、プラスになるかどうかすれすれの気温でコートだけでなく、手袋マフラーは必携ですという気候ではあったのだ。

そこからアメリカ大陸の真ん中をつっきって(だから意外に遠くはない)南にたどり着き、その上空からだんだん緑というものが見えてくる景色を眺めながら、くだらない感想だが、世の中は広いんだよなとしみじみ思った。同じく1月と言っても、冬といっても、寒くなったねといってもその背景はこんなにも違うんだものなぁと、それしか思うものがないといえばそれまでだが、とにかく激烈にそう思った。

人生観だって違うに決まってるわけで、基本的にカナダ人は用心深いという評判が昔からか、あるいは昔はそうだった、かもしれないが、とにかくそういうのがあるらしいんだが、どういう事態でも、真夏の数週間を除けば、夕方になったら寒いかもしれないんだから、と思ってついつい長い袖の衣類を過不足なくちゃんと持ち、冬の装備に入ったら入ったで、どういう事態でもとにかく外に出るには手袋なくしては大変なんだ、ってのが身にしみてるわけで、なんとなく気分で、とか、なんとなく成り行きで出かけちゃって、とかでは生きていられないところではあるんだから、どうしたって用心深くはなるだろようし、極楽にはなれるわけもないんだよなと、どういっても暖かいところからの帰り道々、空港で乗り換えて人々が入れ替わるたびにだんだん陽気さというものが少なくなっていくのを見ながら、仕方ないよなぁと思った。

とはいえカナダ人って別に暗い人たちなわけではないんだけど(と私が言っても現地バイアスがかかってるから駄目かもしれないが)、違うんだよ、あの南の色彩とはぁ、と、ゲーテが南へ、トマスマンが南へ、ウェーバーが南へ行くのもみんなこのギャップのせいだよなぁとかいろいろ思った。いや、しかし、かばいますが、ここはですね、基本的に晴天率は結構高くて、晴れてる日が例えばシアトルとかボストンとかに比べたらかなり多いはずなので、陰鬱度は低いんだと思う。ただ、むちゃくちゃに空が青い時には鬼のような放射冷却で、へんな言い方だけど、雲一点のかげりもなく寒い、というのが陰鬱度と関係ないのかどうかは難しいところではある。


と、その飛行機の旅でふと行きの売店で買ったジェフリー・アーチャーにはまっている私。何をするでもなく1週間のバカンスだったので、本でも持って行こうと思ったのに忘れてしまったので売店で買った。

False Impressionたらいうの。で、これを買った主要な動機は、なんて書いてあったんだったかダビンチ・コードに続くとかなんとかそういうキャッチが刷り込んであった(こっちでは帯というのはなくペーパーバックに刷り込んであるような具合が普通)。咄嗟に、なんだよ、その騙しみたいなキャッチはとは思った。だって、ジェフリー・アーチャーがそんな二番煎じみたいなことするの?と思ったから。でもまぁ他に私が見て、は、これはと思うものはなかった(私の選択肢が狭いからだが)ので、買った。

False Impression

False Impression


邦訳はこうらしい。

ゴッホは欺く〈上〉 (新潮文庫)

ゴッホは欺く〈上〉 (新潮文庫)


面白かったですよ、マジで。ダビンチコードとは関係ないですけど。


でので、面白かったには違いないのだが、何か、往年の名手も疲れたか、でなければ時間がなくてはしょってんのかみたいな感じもなくはなく、このジェフリー・アーチャー体験ってよくないんじゃないのか、と思い出した。

と書く私は、この人の本をただの一冊も読んだことはなくて、どちらかといえばあまり関心もなかったような気もしないでもない、というところだった。が、しかし、面白いんだなとはわかったので、次に、さすがに名前はよく知っていた、Kane & Abelを買ってきた。

長い長い。小さい字でびっしり。そう簡単に読めずに寝る前に読んではまだまだ、まだまだと久しぶりに楽しみにベッドに入り充実の読書体験を楽しみ、そうして、ついに我慢ならずに、ようやくやってきた今日しなければならないことは何もないぜ、の極楽土曜、つまり昨夜なのだが、ほとんど完徹で最後まで読んだ。もう途中でやめられなかった。(その間に別の本を読んでしまったので10日ぐらい忘れてたのは内緒)


Kane and Abel

Kane and Abel

ケインとアベル (上) (新潮文庫)

ケインとアベル (上) (新潮文庫)

とにかく、素晴らしく面白かった。何がといって、これは表層でいえば東部海岸の御曹司とポーランド移民の対比なのだが、テーマとしてみれば、プリンシプルの男と成り上がる男の組み合わともいえるわけで、その対比は、旧世界的対新世界でもあり、それは良かれ悪しかれ、秩序と横紙破り、みたいにも言えるわけでそれがなんといっても面白い。

しかも、これがまたそれがアメリカを舞台にすると「反響」みたいなのがある種の挟雑物に阻まれ、このテーマは伝わっていなかったのではないのか、きっとアーチャーが考えていたようにならなかったのでは?なんても思えて、今後探求したいぞ、と私にとってはともて興味深かった。30年前に大人だったらもっと面白かったのか、それとも今だから冷静に読めるのかどっちかわからないけど・・・。


そのある種の挟雑物と私が名づけるのは、アメリカの大部分というのは基本的に移民してきた人の子孫であることから来る。基本的に移民だからというだけでなく、しかも20世紀初頭に大量の人が来てるから今でもまだそれは若い人のおじいさんとかその上ぐらいで、日常生活上の99%はただのアメリカ人だろうが、ふとしたはずみに自分は移民の子なんだ、というトーンからアメリカに対して他人みたいな発想や感情を持つ人がいる(と私はかねがね思っているわけだが)。または、場合によっては、いわゆるWASPとかアイビーリーグとかとにかくそのあたりが、自分たちとは関係のない誰かとなって、従ってそれはつまり一体としてのアメリカが存在しないことになって、それはつまり自分たちのアメリカ性みたいなのを100%当然視できない契機になる。
(このへんは例えば私が明治の元勲の子孫じゃなかろうが誰がなんといおうとも殺されようとも何をされようとも私の日本人性に傷もギャップも存在し得ないだろうが、というのと比べると、日本にはほぼない発想が足元にじとーっとあるということになる。無理に同じものを見つけようとしても無理だと思う。)

そうした状況から、この種の片一方が貧しいポーランド移民、とかの本になると、そこにフォーカスが当たってしまって(人数が多い、またはマスはそっちだから)、そっちの側を無条件に自分に近しいものと規定して、方や、移民には違いないがメイフラワーで来たような人々を「あっち」にしがちな傾向というものがあると思うわけだ

(もちろん逆の側の記述も可能なわけで、逆は逆で、今度はある種のエスタブリッシュに連ならない側を過剰なまでに粗野扱いして、「あっち」になる、も同様にある。)

で、それはそれで、実際そうしたくなる十分な理由もあるわけだが、とりあえず一様には言えない場面でも、なぜだか東部には反感を持ち、移民から成り上がると漏れなく正しいみたいに捕らえがちな側面は、やはり無くはないように思う−そして負の側面に目をつぶってしまう。。。。

ストレートではないが、有名な『ギャツビー』は東部に負けちゃうシカゴ男なわけで、これはこれで読者に期待されているのは東部への反感だろう。あと一見全然関係ないけど、ミスター・ゲッコーの『ウォールストリート』にも巧妙にそれが仕組まれてたと思った。古いが印象深い映画だと思うんだな、私は。


でので、ケイン&アベルはイギリス人が書いてるものなのでその反感を土台にした読者の方向付けというのはなくて、むしろ東部方面の人の美質が透けてみえる。プリンシプルと忍耐(あるいは残酷さ、でもあるが)、決意みたいなものがハイライトされていて、こういうバリューは好き好きでもあるだろうが、やっぱり美しいと思う人もなくはないだろう(私はそうだ)。

そうして、そう総括してみると、要するにこれは、滅び行く美しいウィリアム(ケイン)の物語だとも言えるのかもしれず、また、それは多分、滅んでいった(わけでは全然ないんだが)イギリスへのオマージュなんだろうな、なんても思う。それはそれでそう書くと鼻白まないと言えば嘘にもなるが、とにかくいろんな読み方のための断片がいろいろあってそういう意味でも面白い本だわ、これは。

加えて、これもまた今にもつながり、その照射で過去にも繋がるのだが、ポーランド人ってこういう人々だよなぁと思わせるものが非常にたくさんあってその点でも面白い。美質もいろいろある人々だが、時に、当人たちにとってそれはオブリゲーションであっても、それはもっと大きなピクチャーにした場合には悲劇のための導火線にわざわざ火をつけてるんじゃないか、と言えそうなところもあるわけで、非常に好意的である一方でなんか難儀な人々だな、など私はかねがね思ってるのだが、アベルはまさにそれだった。
実に無残な、ざっくりとした言い方をすれば、地球上で最も仏教から遠い国の1つなのかな、みたいな気が時々する。


さて次は何を読もう。とりあえずジェフリー・アーチャーを全部読もうという気ではいるのよ。