これはきっと新しい史観なのか

どうでもいいといえばどうでもいい話なのだが、社運をかけて退化したまま固定してしまっている朝日新聞を読むたび思う。この新聞がアジびら並みの嗜好性を持っていることはもはや議論の余地はないし、これをガチで信仰している人もあまりいないだろうと思う。実際の購読者でも。が、しかし朝日は朝日なのだ。つまり、問題は、それにもかかわらず、選挙があるわけでなし、この新聞の持つ位置が落ちないことだ。

一般企業なら購買者が減れば困るためにそこである程度の「社会性」が獲得される、社会の動向によって価値観も変わるし、対応法にも工夫がなされる。が、朝日といった集団の場合、購読費といういわば純な利益ではなく、広告のお金がまず大きい。広告は圧倒的な部数減でもなければ減らないだろう。しかし部数減は可能なのか?例えば、圧倒的多数をどこかの誰かが引き受けている限り部数は減らない。こういうことが行われてたりしないのか? いや、でもそういう水増しがあれば広告の費用対効果は落ちるからやっぱり社会性がなくなって行くにつれ経営難になるのか・・・。いやしかし、そうはいっても例えば他に資金源があればそれも関係ないのかな。資金源さえあれば売れてるような気配を作ることもできるだろうし、その気配がある程度の支持者獲得に役立つだろう・・・。

と、まるでなんだか独裁政権を倒すにはどうしたらいいのかを考えているような、なにか陰鬱というか無力感というか、朝日の社説なるものを読むと、私はそんなことばっかり考えてしまう。マッチポンプリーグに参加しない、というのならまだ笑ってすませられるんだが、それこそここの生命線みたいだからそれはないだろう。

言論をもっぱらとする人や機関に期待するような、どういう分析、どういう解釈を取るのかなぁとか、知らない事実を教えてくれるのかしら、といった興味はほぼなくなって久しい。



あらゆる意味で朝日の言論に文句を言っても仕方がないってのは自明なんだが、とりあえず、なんでここまで来るかなぁとまた思ったのでログしておこう。


安倍首相へ 歴史を語ることの意味
http://www.asahi.com/paper/editorial20061006.html


1940年6月のチャーチルの演説を引いて、「彼の覚悟の背後には、歴史を経ても通用する価値への強い信念がある。20世紀を代表する名演説のひとつだ。 」


と入って、

ところが、そのチャーチル首相を尊敬するという安倍首相の、歴史をめぐる発言には疑問を持つことが多い。首相は保守とは何かを聞かれて、こう答えた。

 「歴史を、その時代に生きた人々の視点で見つめ直そうという姿勢だ」。言いたいことは、侵略や植民地支配について、今の基準で批判するのではなく、当時の目線で見よということなのだろう。


で、これはおかしいと。

私たちは時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできるのだ。


だそうだ。


朝日的には気持ちのいい言い分なんだろうけど、私が根本的に疑問なのは、「歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。」という部分か。何を学ぶの?というか、学ぶって別に価値観制御系のマシンを頭に巻きつけることを含意しないでしょ、ということだ。


戦争Aが当事者1の侵略戦争だったか否かを言明することで学べるものは何なのかというが根本的に疑問だ。


歴史に学ぶというのは、話を国家間の紛争に限定するなら、私の考えでは、どうして最終的に戦争まで行ったかのプロセスを研究していって、将来似たようなことがあれば(同じことなど起こらない)、未然にその目をつぶすためのひとつのモデルにしましょう、といったことではないかと思う。ああ、ここがミュンヘン会議だわな、とか、このまま行ったら奴はルビコン川を渡るなんていいながら半分博打も辞さずになってしまうだろう、その前に押しとどめるにはどうしたいいか・・・といったことだろうと思う。


ヒットラーは悪でしたと百万回言ったところで紛争を無くす、あるいは極小化させる手助けになどならない。


朝日的には、なにはなくともあれは侵略戦争、あれは植民地支配と言明することがすべてに凌駕しているらしい。神学論争好きと呼ばれる由縁なんでしょうが、言ってもせん無いことながら、この人たちは何をしたくてこうした言を発表しているのだろうかというのが根本的に疑問だ。ま、リーグ内の役割なのかもしれないが。


で、それはそれとして、この社説のハイライトは、私的には別のところにある。よりによってチャーチルの演説を持ってきて安倍ちゃんを落とすために使うって、笑い取るつもりですか、じゃまいか? 高等な皮肉なのか?


社説執筆者が冒頭で書いていたのは、1940年6月の、バトル・オブ・ブリテンの名高い演説だ。

そのとき、首相チャーチルはこう述べた。「イギリスの戦いが今や始まろうとしている。もしイギリス帝国と連邦が千年続いたならば、人々が『これこそ彼らのもっとも輝かしい時であった』というように振る舞おう」


で、これを、

彼の覚悟の背後には、歴史を経ても通用する価値への強い信念がある。20世紀を代表する名演説のひとつだ。


というわけだが、このバトル・オブ・ブリテンとはむしろ大英帝国最後の踏ん張り、みたいな位置にあったわけで、確かに名演説かもしれないが、歴史的に見れば、悲壮感が見えると読んでも間違いではない演説だろう。

言うまでもなく、第二次世界大戦とは大英帝国の終焉をもたらした戦争だったのだし、そもそもその時点で、もはや外貨は底を付きかけ、アメリカのレンドリース法がなければイギリスはどうなっていたんだ、という状況だし、その後待望のアメリカ様のフル参加とはなったものの、第二次世界大戦終結から間をおかずアメリカが、もう貸したげない、と言ったから大変、というのが流れだ。

逆にいえば、アメリカの参戦なくてはこれは勝てないとわかっていたはずのイギリスで、もしアメリカは参戦しないかも、という事態が想定されていてもしこのような演説をしていたとすれば、この同じ演説は、国民を総力戦に持ち込むためのアジ演説とさえ言われたかもしれない。(それでも踏ん張っただろう国民性を私は好むが。)


ま、いずれにしても戦争は開いてしまえばどうあれ勝ちに行くほかはない。その意味では、この演説は名演説だし、私は好きだ。しかし、戦争に人を追い込むための演説を、平和時の、そして私たちが知りうる限りこの60年間戦争を遂行してもあおってもいない国の首相の歴史観なるものを査定するための対抗として使用するのはいかがなものかとは思う。


もう一つは、今現在残っている国々では、イギリスこそ植民地支配の王様、勝利者だと思うが、この場合にも、その時代の視線を尺度にして語ったらどうなるのか、そうすべきではない、といった自論を展開するんだろうか。その場合には、この名演説は、その時代の価値観そのものだったかもしれないにもかかわらず今現在褒めているというのはどうしたことか。イギリスの戦争は本国でだけあったわけではないわけだし、植民地として作った都市を自分んちのように思っているからこそ、イギリス人は香港で日本軍にやられたと怒るわけだし、シンガポールこそ帝国の生命線、大事な大事なインド、であって、シンガポールやインドの庶民を日本軍から守るために戦っていたわけではない。


もっとも、イギリスの場合はこうした演説は「その時代の価値観」ではない可能性は高い。植民地支配についてはいろいろしてやったんだから全然悪くありません、というのがある種世界的に知られた彼らの見解だから。私はこの態度は基本的に、うなりながらも、次善の次善ぐらいには買う。過去の行いを悪いと言ってみたところで現実から将来にかけての危機を避けるための役には立たない。過去が不愉快だと思うのなら、そうならないようにするにはどうしたらいいのかを考えることが最善であって、過去の悪者を特定することは、要因を特定し現在に応用するという作業中でもない限り、何かが変わるわけではないから(捏造史観という手はあるが、気休めにしかならない)。


と、思わず長文になってしまったが、一体なんだってチャーチルを持ち出して安倍ちゃんを批判しようなどという素っ頓狂なことをしているんだろう? あきれるというより、なんか、新手の謎に思えてきた。なんかきっと彼ら史観があるのかもしれない。もはや自虐史観とも言えない風味だ。


cf:
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20050815