『ある異常体験者の偏見』雑感

どういう脈絡もないのだが、日曜日1日かけて、山本七平氏の、『ある異常体験者の偏見』を読んだ。いい読書だったとひさしぶりに満足。


どういう脈絡もないのだが、日本に帰った時に帰りがけに本棚から適当に、あんまり考えずにざらっと10冊ぐらい詰めてSal便で送ったものにこれがあって、結構楽しみにして読んだ。実家の本棚から拾ってきたものというわけで、初読ではなく、再読。読んだ結果としては部分的には再々読のような感じだった。覚えている論脈もあれば忘れているものもあったし、ようするにそういうものとは、自分の頭の中で再出できるほどに、つまりよく通訳の人が言う言い方によれば、受動的知識ではなく能動的な知識にまでなってないものが結構あったわけなのだななど思った。


ある異常体験者の偏見 (文春文庫)

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)


全体的に、ある人の論文に対して疑義を発してそれを分解していくという体裁なので独立の論文のようになっているわけではないからテーマに沿って読めないと意味では読みづらいといえば読みづらいのだが、この体裁を借りながらであるからこそ、レトリックとそのリアクション、そしてそのリード、つまり全体としていえば「宣撫」に関する氏の知見にリアリティが出るともいえる。


しかもそれが、今もまだ十分日本の状況、とりわけメディア上にある言論とはどのように存在しているのかその形態を考えるために、くどいがまだ十分に、十二分にどころか、もしかしたらかつてと同じように使えるというのは、この種のものの考え方、というより言辞との付き合い方の習慣というのは根強いというべきなのか、それとも、宣撫工作班が屈強だということなのか、どちらかはちょっとわからない。


そしてこの疑問は、私は氏の著作全般に対しても抱いているかもしれない。全体的にすべからく日本人のある種の習慣の故にこのようなことが起きる、ではその思考習慣(氏は思考図式と呼んでいた)とは、と開示していったところは、これらの原稿が書かれた(初出はいずれも文芸春秋、1974と奥付にはある)時点では、とても珍しかったのかもしれないし、また、氏の日本人シリーズとも日本教シリーズともいうべき著作が受けた(よね)ことからみても、多くの人は、日本人の思考または選択しやすい考え方というのを模索しようと、つまりできるんだろうと思ったいたような気がするのだが、それそのものの限界(だめだという意味ではなくて)、妥当性を検証するための最初の仮説(のひとつ)として読むのがいいのかなど思う。


この30年間で、格段に増えたものは日本でのみの体験ではない体験をしている人とそれらの人々が残すログなんだし、他のものを読む量も増えたことなんだし、など思う。で、それにもかかわらずある種の傾向というのはおそらく何か残るだろう。そしたらまた検証すればいい。そういう取り組みはつまり、氏の言うところの「虚構の座標」を信じたふりをして行くことによるリスキーな言辞に対する反応形式ではない、それこそ「一億人の偏見」による安定軌道が望めるんじゃないかと思った。


そういうわけで中年にさしかかり、の人などが読むとよいのじゃないのかと思うわけだが、いかんせん時事を例に出して解説している部分と、上に書いたように反論として書き出していることなどから、その時代の背景情報がないとなかなか理解しづらい本ではある。つまり、漸次理解できる人が少なくなっていく本ともいえるのかも。こういうものこそ、クリック一発で記事にリンクされてるといいよね。その処理がなされていたらこの本の汎用性はさらに高まると思う。


雑記として、アントニーの詐術、トマスの不信、内地宣撫班といったタームなどは、ここ数年ネット上で(より多くは2チャンネルかもしれないが)繰り返し行われて来たことを見聞きした人は、すでに氏がターゲットとしてきた言辞とそれが本質的に志向している方法ないしは方法論の今日版を使って演習済みだと言ってもよいかもしれないぐらいだと思った。今生きてたらなんておっしゃるんだろう。ちょっと品下りすぎて駄目かしら。


雑記2.1974年というのは私にとってなんせ遠いわけだが、しかし、しかし、そういう時代だったのかぁああと改めて驚いたのは他でもない、この本に収録されている対論者の論文。


毛沢東主席の文革路線はますます中国の人民に理解されているんです、私はこの目で見ました、といった文章をマジで書き、さらにどこまでも主席が言うには云々と引用してしまう(例としての引用ではなく権威としての引用という意味で)人が大新聞社の編集委員だったんだものなぁと感慨深い。この時代に、白いものは白い、赤いものは赤いとしか言えない性格の人で特に出版周りの人はさぞや生きにくかっただろう。いや、もう絶対。


雑記3.アパリの地獄船。敗戦後の日本兵を乗せた輸送船内の出来事を上のような話を引き出しながら書かれたエピソード全体として(このタイトルの章だけでは終わらない)、非常に感銘を受ける。胸が詰まる。本当の勇者とは、その場にあっての最善を淡々とすることのできる人のことなのだと再度思い知らされる。いささか大げさだが、こういう人に会えることこそ人生の喜びだろうし、そうしたことを知ることこそ読書の大きな喜びのひとつだろうなと思った。感謝。