トロント映画祭と人・気

数日前ダウンタウンのど真ん中あたりを歩いて、あれ、なんでしょう、違うわ、どうしたの?といった感覚に襲われた。と、私は毎年これを体験しているように思う。これというのは、トロント映画祭に集う人々によって変わる街のこと。


9月になると毎年恒例で、トロント映画祭が開かれる。
http://www.e.bell.ca/filmfest/2006/home/default.asp


だからといって、別にトロント市がどこもかしこもおめかしするとか騒ぎになるとかいうことはなくて、考えようによっては地味にやっているとも言える。多くのトロント市民にとってこの映画祭は、映画祭に集められた好みの映画を市内の映画館に並んで見に行く、またはそれに伴って出てくるいわゆるフィルム・スターの動向に関する記事を楽しみにする、といった地味だが地道な楽しみ方で過ごす2週間といったところかと思う。


が、しかし映画関係者の中ではこの映画祭はそれなりに評価の高いものらしくて *1)、俳優さんやら監督さんだけでなく、フィルム関係者というのか、メディア関係者がかなり集ってくる。で、その人たちが街の一角の常々派手というか、華やかといえば華やかかなぁ・・・(としか私には思えないが、ここを華やかじゃないといったらカナダには華やかなところがなくなるのでそう言っておく)というあたりを闊歩する。さらには、当然人なんだから少し離れたところなんかにも出歩くわけで、ダウンタウンおよびその周辺部に、普段見かけない様相の人が出てくる。


で、冒頭のように、普段そこを日常として見ている私を含む一般人は、「あれ?」と思うわけだ。あれ、を引き起こしている人々はカナダ人というより、フィルムのことでもあり、だいたい、アメリカ人が多いんじゃないかと思う。多分そうだ。そーいう臭いがする。


これらの人々は、業界の催しで来ているからそのノリのままなのか、それとも普段からずっとそうなのかわからないが、考えてみれば不思議なことだが、とにかくわかる。見分けられる。目立つ。
(もちろん、若干は受け手である私が見分けることができるいわば指標を持っている、ともいえる。実際、彼らを見て、業界人だという特別な印象がわかず、ただ、派手、お金持ちとしか思わなかったカナダ人もいる)


俳優さんじゃなくて、業界人がなぜそうまで他と異っている必要があるのだ、というのも不思議だが、とにかくそうだ。服装も違えば、統計とったらきっと比較的見栄えのする人が多いかもしれないが、そういうことだけではない。なんか、独特な強い雰囲気がある。


他に解釈のし様がないので凡庸に解釈の糸口を見つけようとすれば、とにかく目だってなんぼの世界、自己アピールでなんぼの世界で生きている人だからなんだろうなぁとは思う。私の意見、私のアイデア、私の構想、私の記事、私の感想、私の写真、私の・・・・・を見てよ、とアピールして、それが受け入れられなければ業として成り立たない。


しかし、こう書いてみればどの世界でも、どの業界でもそれはそうだ。お味噌屋さんは自分がここで味噌を作ってることをアピールしないとお味噌は売れない。が、しかし、この場合のターゲットはお味噌を買う必要性または欲求がある人と決まっているから、マーケットというのは自ずから決まっており、そこで必要なコミュニケーションの質と量にも自ずからなる限界(つまり必要性)が決まる。


それに対して、映画、映画業界、とりわけ、世界的であろうとする系統の映画関係者が見るターゲットというのは、一般的で総称的な「人々」なわけだから、精神的には、雲をつかむような危ういといえば危ういものをマーケットにしている。しかも必需品ではない。だから、マーケティングというのはし様がないとも言えるし、し様は無限大だとも言える。そこで解放値0の自己顕示欲満開、になるのか?


いやしかし、業界関係者Aが直接に評価を受けなければならないのはその仕事の上流にある編集者BとかオーナーCとかいう人であって、街行く人D、E…の、わぁおぉ、という視線ではない。


しかし、AがD、E…という人の歓喜、あるいは陽気とでもいったものをうまく身にまとっていたといたら・・・。たとえば、極端にいえば、Bがなんといおうとも、俺は支持されているという、ある意味厳密には無根拠の自信があったとしたら、もし、もしB,Cから見てのAのプロダクトまたはその可能性が、残りの候補と似たりよったりならば、少なくとも極端に劣っていなければ、D,E…の視線がもたらした影により実体化したともいえるようなその論理的には解明できないという意味で無根拠の自信は、Aという人を大きく見せる、または、さらに努力させる、推進させるという実体効果を持つ・かもしれない。


まったく無理に書いているような気はするが、ある種不気味なほどに(つまり、日常的な人には不必要と思えるほどに)強烈なアピールが存在する理由は、こうした効果を論理的というより直観的、経験的に知っているからなのかしら、など思ってみたりもする。


視線にさらされるというのは、多分何よりも人を強くするんじゃないかと思う。冷静に考えれば家の中で篭って書く仕事のメディア関係者は多いわけだが、それでも人の間に出ようとするのは、きっとそういうことなんじゃまいか。自分を見せたい、見せたいほどの何かがあるのじゃなくて、自分を見てもらうことによって、その視線で自信を回復または構築するんじゃまいか。これがホントの、人・気の獲得、みたいな。


いや、どうでもいいんだが、なんせ、街が華やかな感じになるというのは私はとても好き。
いらっしゃるなら、トロント映画祭の時節も一興ではないかと、トロント市観光局に成り代わってご案内申し上げます。


1) 一説によれば、トロント映画祭であたったものは世界マーケット適性において高いポテンシャリティがあると考えられるんだそうだ。白人的、ヨーロッパ・オリジン的なところではあるが、街の人口構成は世界の人々博覧会みたいなところがあるので、この多種多様の中で受けるならだいたいどこでも受けるかも、みたいな指標らしい。
個人的には、この指標は疑問かもなぁと思ってる。トロントの映画オタクは、極端に世界オタクである層と重なるのでは?思うので、こういう人々が世の中にそれほど多いのかと考えると、なんか違うと思う。いいポテンシャリティだとは思うが、世界的である人とは、それ自体として独立な個性であって、世界中でOKってもんでもないと思うのよ。