少女漫画と日本でないところ幻想


http://en.wikipedia.org/wiki/Manga


ついでに、wikiのマンガを読んでみる。とりあえずこのところ日本のマンガ、またはアニメについて語られる場合に使われている、ある種現代におけるオーセンティックな解説が書いてあった。


で、その中ですっぽり欠けているのは「少女漫画」かなぁと私は思う。少女漫画と少年漫画の区別は、ターゲットがガールかボーイかという問題であり、しかしそうではない、ってのがその主要な原因ではなかろうかと思う。


「少女漫画」は、戦後のみならず開国以来日本が持っていた、西洋社会幻想ないしは憧憬、最良の形態として理解、みたいなのがないと成り立たなかったであろうと思う。
もちろんその「理解(幻想も含めて」は、直接に本当の西洋社会ではない。だから、この「理解」という名の日本変数みたいなものが解かれないと、直接に世界マーケットで受けるっつーわけにはいかないラインなんだろうな、など思う。


で、その理解は作者だけでは成り立たないわけで、読者もその中にいる。どういう読者かといえば、やっぱりこの、子供時分に岩波少年少女文庫を読んだりしていた人とか、あと、西洋ものの読書暦の中に必ずといっていいほど、ヘッセの読書暦っつーがさり気に入ってる気がする。従って、人はよく悩む(笑)。現実の世界でどうやって食っていくか問題よりもそちらでの終結の方に重きが置かれる人生観が形成される。そちらがよほど高尚だ、という理解とも言う。

で、知らずにそれが、日本ではないどこか、せーよーのどこかと一体化する。従って、なにかせーよーとはそのようなところであるような錯覚に陥る。形而上下の西洋、つまり現実の西洋(というより、実際にはネバネバランドかもしれないわけだが)は、後手に回るか、最悪の場合、そういう人は例外だ、といった排除機能さえ働く。

本の中で知る西洋が先にあり気で、しかもその世界は倫理観の形成と一体化しているために、なかなか崩壊しない。そのため、現実にどんなセーヨージンが来ようとも、本、漫画で構成された方がずっと強い。よほどの体験がないと、現実>読み物世界にはならない。この世界観があるために、多分、少女漫画の寿命はえらく長いんじゃないのかと思ってみたりする。


もちろんそういうものばかりではないのだが、いやしかし、かなりのところそうかもとか思ってみたりする。世界マーケットに乗りやすいものよりも、日本論を書くならこっちの解明の方がはるかに本筋だろうとかも思う。