いわゆる一つの朝日断末魔


【社説】2006年04月07日(金曜日)付
教科書検定 高校はもうやめたら
http://www.asahi.com/paper/editorial20060407.html


しょえええ。
確かに、教科書の検定を止めたらどうか、というのは十分に問題提起の価値はあるだろう。が、しかし、それを使って嘘をつきました、それは反省してます、でも「事実」は云々と書いたと思ったら今度は何食わぬ顔で検定が悪いときた。凄すぎる。
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20060406


小学生でもやらないようなことを本当にやっているという件について、本人たちはどう思ってるんだろうか。ま、サラリーマンだからいいか、なのかそれとも自分たちが何をしているかに気付いた人からやめていって、さらにコアな人材(笑)しか残らなくなったのか。よくわからないが、もはや尋常ではないとだけは言える。さらにクロスヲチ。


[捕捉}

さらに、いやもうどうでもいいのだが、この新聞に対するいわゆる高級紙という名前を全世界的に外すよう、暇と熱意のあるひとは継続的に自分以外の人に言及する運動をしよう。殊に在外者のあなた、あなたです!

「ペットを家族の一員と考える人もいる」。この文章のどこが間違っているか、答えられる人がどれだけいるだろう。


 「動物は家族ではない」が文部科学省の正解である。検定の結果、「家族の一員のように親密に思っている人もいる」と直された。


話の枕をこれに決定した時デスクは何も言わなかったのか? ペットは個人的見解、心情的見解としては家族以上のものであろうとも家族の一員ではない、というのは文部省の見解なのか? 私としては、おそらくほぼ全世界的な見解ではないかと思うわけだが。


で、ものを書く人なら文章を直す人の気持ちもわかろうというものだ。私にこの校正が回ってきたら、もしかしたら、私もこう直すかもしれない。なぜなら、実際ペットを大事にしているとは、どれだけ心情的にそうでも一員ではないのだし、本人もそれは知っているだろう、であれば、一員「のように」、というのが妥当だろうと見なすからだ。つまり、校正の主意は、できるだけ事実に近い方がいいのではないか、という点だ。


そこに噛み付くとは、要するに、自分たちがどれだけ何かを書く時に、対象を文言にするためにそれをどう表現するかに苦心しているというよりは、こう書いたらOKかな、駄目かな、という「検定」マインドに日頃親しんでいるというだけではないかと思う。そうして、昨日の宿題でいえば、彼らはそれら「検定」に則して問題なく書きあがったものを「事実」とみなしているのではないのか。もしそうなら、それはある種宗教機構内部の人間のようだ。(本当の柱になる宗教者ではなくて宗教官僚みたいな)。まったくしゃれになってない。