自由であるべく強制される自由


特に熱心に元ネタを求めていないので失礼な引用の仕方になるかなとは思うのですが、svnseedsさんが興味深いことを上手にまとめてらした。こんにちは。

「多様性を認める社会」であるということは、「すべてのヒトが幸福であることを保証する社会」から逸脱する存在を認めるということだ。


について、

ってこんなことはとっくの昔に誰かが言ってるんだろうけど(8歳のときのバートランド・ラッセルとか)、稲葉先生のところの内藤さんのコメントを読んでこんなことを考えた。アレは僕にとっては悪夢のような世界ですよ。

http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20051118#p2


ラッセルの「西洋哲学史」のルソーの章はこのことの批判に費やされているといっていいかと思われます。またはクソミソ、と。ルソーが言う自由だ自由だ、というのはルソーが語るところの自由にその他の人々が強制される話じゃないか、そうなるのも自由という語を個人の心情を根拠にして語ってるからじゃんかよ、というのがルソーへの主要なご挨拶という感じだったと思います。

[捕捉:ラッセルはこの近代の傾向を、18世紀のロマンチシズムから書き起こしている。怜悧な企業経営者がリーズナブルな処置を労働者に向かって施そうとしてもまったく興味を持たないブルジョアのおねえさんたちが、貧困の果てに身売りされる農民に純粋なものを見る、というより、見たくて仕方がない、と。]


また、部分的には、ミルのアーギュメントの分析にもこの手の批判は登場。というかというか、ルソーから後ろの近代の哲学者に関しては結局この問題につきていたのかもしれない。つまり、話者の心情を根拠にした措定への違和感と批判、と。しかしデカルト以降の近代とはこのような時代ではあるんだというある種のあきらめもあった。


と、このロジック、この成り行きは、実は個人的にはとてもホット。この頃のカナダで感じている奇妙な感じはまさにこれだなぁと思ったりするから。つまり、「多様」であることを強制される多様化社会だよなぁと感じることがままある。


といっても、現実の普通の生活の方は、実際多様で多様なまま、つまりかなりさっぱり、ばらけた社会だ(そうなるより何がある?)。が、メディア関係者が、啓蒙しているつもりなんだろうけど、多様でなければなりません、ええ私たちは多様ですといっているそれ、その多様の「あり方」(モデル)が、笑えないほど画一的で脅迫的になってるぞ〜というのが問題だと思ってるし、個人の心情を土台にものを言うのなら、それにさらされる私の精神状態は立派に抑圧されているわ。


分かりやすい例でいえば、ゲイの権利を認めるか否か。認める人がいるのなら、認めない人の存在も考慮すべきじゃないのか、どっちみち誰かのケツの穴の心配を上から強制してみたところではじまらないんだし、というのが現実的なマジョリティだとすると、メディアリベラルは、認めないという人を悪魔か何かのようにこき下ろす。遅れてる、などと言って、言えない雰囲気を作る。ブッシュについてもそうだ。ブッシュ嫌いはいい、が、好きだという人の権利も認めてやれよぉ、という感じ。不寛容な寛容社会だな、と思う。


さっきテレビでちらりと見たのはフランス語に関する「不寛容」。アメリカからの大使に、私たちはフランス語も使うバイリンガルですからバイリンガルですからといって、あなたも勉強してますか、とキャスターが尋ねていた。余計なお世話だろうと私はテレビの前で突っ込んだ。大使は、気の毒に、「ちょっと」とフランス語で答え、バイリンガルであるらしいキャスターにからかわれていた。最後には、カナダを去る時にはもっとカナダをよく知って一番のファンになって終われるようにしたいです、と普通のことを大使が言うのだが、キャスターが、「フランス語ももっと上達して」とつけていた。アメリカからの大使を私がかばいたくなる心境になるというのも画期的な感じだったが、いくらなんでも失礼だと思った。別に当座用事のない、とりあえず母語である英語で立派にはなせるんだし、そもそも通訳がいれば足りるんだからフランス語を習いたくないとアメリカ大使が言ったらどうなったんだろう。


それにそもそもオンタリオ州のカナダ人でフランス語が達者な人なんてオタワに固まっているだけで、他には滅多にいません。カナダはバイリンガルって、別に個人がバイリンだというわけではない。二か国語以上できる人が多い割合は確かに高いし、それがゆえに、外国アクセントに対して寛容な人が多いという点がバイリン環境のもたらした恩恵かなと思うが、こうなってくると、それも吹き飛ぶ。詐欺みたいなこと言うな、と私は真面目に思う。さらには、カナダ大使が日本に来て、日本語をできないなんてあなたって駄目ですね、なんてことを言われたらどんな顔をするんだろうなぁと思った。


「多様であるよう強制される多様性」といっても文字通りに、多様であることを尊重しあうのではなくて、カナダが敷いたルールの上で多様であれと言っているのに過ぎなくなってきている部分があると思うなぁ。いや、マジで、リベラル14年の間なのかなんなのか知らないけど、一部メディアの電波の強力さは酷いものがある。自分たちは正しいのでこれに従わない人は馬鹿か野蛮人です、といってはばからないわけだが、この根拠って何よ?だ。


上の大使の件では、そういえば、カナダ人の70だか60%だかがあなたのところの大統領を嫌いだと言っていますがどう思いますか、とも尋ねていた。残念です、とアメリカ人が言うわけもなく、ブッシュ大統領は立派なリーダーです(とかなんとか)と大使は答えていた。逆のことを考えてみればわかると思うのだがなぁ。アメリカへのカナダ大使がアメリカのメディアのインタビューで、アメリカ人の70%はカナダの首相が誰だか知らないわけですがどう思いますか、と尋ねられたら、どうするんだろう。アメリカ人は馬鹿です、世界について(カナダ、ではなくて)知らないと新聞がかき立てかねないのが今日のカナダ(そして、普通の人はその成り行きを見て笑う、と)。そして、ではカナダ人が日本とかチャイナの首相を知っているかという質問はしない、と(しかし普通の人は結構知っている)。


とか書いている私は、まぁそんなことを言っても冗談ですむが、多分、マジで、リベラルに抑圧されていると感じているカナダ人は結構いるんだろうと思う。保守党は基本的には、必要のない地帯でフランス語を使うのをやめたい、と考えている人が多いらしいんだが、おそらく、それって、元からの「モノリンガル」万歳であった人もいるだろうけど、「自由であるよう強制される」式へのカウンターとしてのモノ指向の人も結構いると思う。


こうやって歴史が編まれて行くと考えれば、それはそれで興味深いわけだけど。