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強権的な土地収用を批判 中国誌、日本と比較
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2005112101000696

中国各地では、地方政府が都市整備や開発区造成などを理由に強引な土地収用を進めて住民と当局側が衝突、社会問題化しており、同誌は日本の土地制度について「政府も住民の土地を没収する権利はない」と紹介している。


根本的に、私有財産制度ってのが確立しておらず、その上にたった政府が存在していない、と、ただそう書けばよいのではないのかと思うわけだが。でもって、明治維新もそうだけど、近代社会への変化の基礎中の基礎ってそういうことでしょ、とただ単純にそう思う。

日本との比較をしてないで、原理原則から考えてみた方がいいんじゃまいかとは思うんだが、ここに来て、マーガリン・コミュニズムの影響は膨大かも。つまり、ものごとを設定するための基礎をよく理解するための基礎が薄いかも、ということ。マーガリン・コミュニズム時代の前は内戦で、その前は日本軍との戦い及び内戦時代で、その前は清朝なわけで、この中で、権威(国家など)と個人の関係の規定に関する慣習法的蓄積はどんなものが期待できるんだろう? そしてその慣習法と現在において適度に世界性を持つ法と規則との差異はどのぐらいか。差異が特定できれば漸次修正なりバッファを組み込むなりしていけばいいわけだが、しかしなぁ、その発掘作業をするそこにはマーガリンがべったりだと。


マーガリンのせいで順番に、設定、問題発生、考える、設定2、問題発生、考える、その繰り返しというサイクルを国民的にというか、社会的に経験したといえるのかというのがあるわけで、この体験値レスも結構大変だなとか思う。でもって、日本を見渡して、日本がやってることをサンプルにして、日本ができたことができないわけはない、みたいに措定したりするのかしらん、などと思ってみたりもするのだが、それは肌の基礎が違うのに、同じスキンケアプロダクツを買ってきて、同じ肌になるはずだと言っているのと同じく、だめっしょ、じゃまいかとひとしきり。