それはそれとして民主党

鳩山由紀夫幹事長は毎日新聞の取材に「戦争を賛美するために国が作った施設だという靖国神社の本質を分かっていない。戦没者慰霊は詭弁(きべん)に過ぎず、中韓両国の国民には、日本が軍国主義に染まってきているというメッセージになってしまう」と懸念を示した。

(goriさんのところで読みました。)
http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/200510171330.html


民主党、ストップ安とまらずみたいな感じ。
戦没者慰霊は詭弁(きべん)に過ぎず、とまで言ったことは覚えておこうと思う。じゃあ、あなたにとっての戦没者を慰撫するという行為はどういうものですかと私は問いたい。仮に、靖国神社の「本質」とやらが、戦争を賛美するために作った施設だとしよう。しかし、それにもかかわらず、国家をあげての戦役で、そこをある種の連帯の象徴のようにして死んでいった人がいた。ここはまげられない。彼らはだまされたのかもしれない。しかし、それでも私たちは彼らの意図をまげられない。このことを氏はどう考えるのだろう。


私の祖母の実家の近くに、官社レベルの厳めしいやつじゃなくて、いわゆる郷社レベルの神社がある。その神社はその小ささ、目立たなさにもかかわらず、戦争中、その地域の氏子またはその関連者だけでなく、今考えてみれば結構遠いところからもその神社に、ご祈祷というのか、お参りというのか、なにしろ足を運んだ人が多かったのだそうだ。というのは、その神社にもうでた人たちは戦死しない、帰ってくるという噂があったからだそうだ。

それはまったく馬鹿げたローカルな噂であっただろうし、当時の人といえどもそれはわかっていただろう。そんな統計があるとも因果があるとも思えない。しかし、そんなことでもしなければ生きていけない心情にあった人というのも大勢いたのだろうことは理解できるし、心情的にはなんだかこう、その地域が比較的大きな川の曲がりはなを、里山が取り囲むという、牧歌的な、ある種日本的で日本的でしようもないところだからというのもあるんだろうが、ちょっと辛くなるものさえある。私はそれを笑ったり、あんたらだまされてたんですよ、どうあれ戦争に行ったんだから殺人者ですよ、など言って回る気はない。彼らはだまされていた、彼らは本質を知っていなかったと言ったところで、彼らがそうやって参拝して、そうしてその中のいくらかの人は死んでいったということは曲げられないからだし、その時の個々の人々の意図を私たちは総体としては計り用がない。わかるのは、まず、あるいは後に生きる私が受け止められるのは、国やら故郷やら妻やら子供やら親やら兄弟やらを守ろうという意図で戦地に向かった人はいるのだし、それを信じた人もいたということだ。そして、実際のところ、たとえば誰も戦おうとしなければどこかの国に侵略されていた可能性が全くないなどとは言えない時代であったところから考えれば、彼ら個々の行為が現在の私たちのこの国を支えていることも間違いではないということだ。


私にとって靖国神社問題の「本質」とは、後に生きるものとして、それらの人々の行為を思い出し(擬似的にせよ)、台無しにしない、無にしないことを自分に向かって確認するというものだ。