「マルチカルチャー」雑感

自分でやってて全く気持ちのいい展開ではなかったので、ページを変えるために書いているが、そうはいってもここでちょっと弱気になるような気配は本人にはまったくない。偽善者? 上等でしょう。偽善者のふりをしろ、そうすれば善をなすものとなるかもしれないのだし。


不幸にも参加された方への言い訳も含めて書いておきたいが、以前から少しく気がついていたのだが、おそらく、「カナダ」というのがある種の人々にはある種の幻想をもたらしているのかな、などとも思う。キーワードは「多文化」。だからこそ、そんなところにいるくせに、といいたくなる人もいるのかも、など。


しかしそれは彼ら(不特定多数だが)の幻想だ。そして私はその幻想の中にいない。彼らは彼らで語ればいい。一方で、マルチカルチャーの中にいるからこそ私はこのように考え、そしてそれを話すことへのある種の躊躇が消えたのだろうと思う。私は以前相対的にいえば短期間だったがアメリカに住んでいたことがあった。おそらくあのままいたら、多分、ポリティカルにコレクトなこと以外を考えてはいけない[曖昧だが、表現してはいけない、との中間ぐらい]という縛りのままだったかもしれないなど思う。しかしカナダに来てから、次第にそれが消えた。


アメリカのせい、ということではないので注意。私とアメリカの関係においてはそうだったということだ)


手短かに書けば、みんな違っててみんな同じ権利をもってるならば、特定の集団へのindirectで特定の配慮は機能しなくなるということがわかってきたからだ。


冷静に考えればわかることだが、世界中から多くの事情を持った多くの人が集まっている状況下にあっては、1つの集団だけに対する法的でも論理的でもない、「良心の問題です」といったものはなかなか成り立たない。機能しない。「良心の問題です」という理由で他者にもこのピクシャーの中に入れというのなら、なぜそうなのかを開示しなければならない。(でなければ「PC」という強制ではしょる、だが、ベーシックなところでマルチリンガル温存ならば、それを押さえることは無意味だ。あはは)


開示すれば大抵の場合、一方的にどちらかだけが悪いという話には普通ならない。というか、議論を確かなものにするためにはわざとカウンターの視点を入れるのが普通だろうかとも思う。そしてそれが「社会」の問題ならば、関係のない人はいないから、誰でも理解できる筋道にしないとならない。そういうわけで、ここで神話性は消える。


それを経てまでもなにか特別の配慮がなされるとしたら、それはすでにパブリックに認められたこなわけで、実効的には法だ。


唯一カナダが頑張って維持している神話は「連合軍は正しい」だろうかと思う。対比的にナチと日本軍は悪「かった」、ということになる。この国自体がどこか国連直轄領めいたところがあるのだし、それはその成り立ちから考えればやむを得ない部分もあるし、戦略的にもやむを得ない部分もある、みたいに私は考えている。だからといって、神話に飲まれないと辛い思いをするとかいうこともないから、ま、いっかみたいな認識。もちろん、言うべき機会があればなんでも言うが。


とはいえ、実際には山のような問題を抱えている。移民を大量に受け入れつつ社会保障を比較的充実させていくというのは、どこが公平か、何が公平か、という問題を日夜考えないとならないようなものらしくある。ま、そうでしょう、だって。


あとは、一般に大盤振る舞いと考えられている特定の移民、難民集団への保護だけでなく、生活資金の援助。ま、それだけでなく、普通のカナダ人に対するwelfareの不正受給問題も常にふつーに語られている。で、こうなってくると、働く気がなくなる人、みたいなのもやっぱり散見されるわけで、ここらへんは暗礁っぽい。俗に語られるアメリカ人のカナダ人評の中に、働きが悪い、ってのがあると思うんだが、せっせこ働くポジティブな人とそうでない人の差異は確かに小さくはないと思う。


で、どこまでいっても移民問題がすそで尾をひくのがカナダではあるんだが、今生活に困った、という時に、難民支援政策のある人とそれ以外の人は比べ物にならないってのは確かにある。とはいえ、そんな生活うれしいわけないじゃん、私たちは私たちでできる限りの生活をしましょ、と明日もポジティブに、となれる人はそれでいいわけだが、どうしても、あいつらずるいよな感に足下を救われたままの人もいなくはない。


しかし、それら足下を救われてる人たちばかりを責めるわけんもいかないのは、実際、もらう、という行為に対して躊躇のない人が確かにいるからだ。カナダに来て、こんな先進国だっていうのに私には何もない、なんて貧乏なんでしょう、とか嘆くだけでなく、政府を責める言動に走る人は、そしてそれが他人にどう聞こえるのかにまったく考えのおよばない人はいる。


大雑把ないい方だし、おそらく差別的に聞こえるんだろうが、ある特定の国々、先進国で、自分たちが支払って自分たちがマネージすることを経験している人々(私や私たちもここに入る)は、「もらう」という意味が比較的明らかだし、「限度」があることも知っているように見える。が、そういう体験値がない場合、困ってるんだからくれ、になりやすい。これが重税にひーひー言ってる普通の人(カナダ人でも移民でも)に快く受け入れられないのは、まぁ理の当然でしょう。私はだいたい、聞かなかったことにして精神の安定を保っているというのがデフォか。


偶々、友達が彼女の友達の話しとしてこんなことを話してくれた。その人は、あまり豊かとはいえない国から移民してきた。

彼女がいうのには、「本国でそんなもの見たことも、得られる希望さえなかったのに、ここに来た途端、あれもこれも得られるべきだ、与えられるべきだ、と言い出すのは恥知らずだ。欲にかられて何をしていいかわからなくなっているのだ」、だそうだった。もちっと過激な展開もあるのだが(どの集団でも、自分の集団の人に投げかける言葉はきついものだ)、とりあえずこんなことを言う人はざらにいる。ここにある線引きは、マイノリティvsマジョリティなんつーものでもないし、移民vsそれ以外なんつーのでもない。


しかし国是として難民、移民受け入れます、をやっているし、あとはぶっちゃけ、アメリカもここもそうだが、何があっても「消費者」は確保する、それが資本主義を生き抜く最上の方法、ってのが公然の秘密ではある。だから、カナダから提示できるものはこれだけですが、それでもいいなら来てね、というところで、それほど保護が手厚いのかといえば、トータルで考えればそれほどでもないように思う。英語ぐらいしゃべれたって職ないし。ただ、アメリカとの比較において、入り口でのベネフィット感は大きいかもしれない。健康保険あるし。


と、雑感を書き連ねたが、日本語環境で見る「マルチカルチャー」「多文化共生」は、導入者の我田引水がきつかったために、日本語環境でしか通用しない話になっているのではないのかと私は考えていることを付記する。周りの田んぼが干上がってしまったみたいな。またまた、千年王国説、または地上の楽園妄想習慣に部分的にかり出されたような感じだったのかもしれない。