相対化の落とし穴

日本軍残虐の嘘。胎児を食べるのは支那人
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/4290183.html


西村氏のこの記事に由来するものと見えるチャイナの食人習慣を巡っていくつかの異論反論を読んだ。


わりともクソもなく私は驚いた。こういうテーマでさえも相対化しようという、つまり、チャイナの伝統なんだからとか、文化的差異なんだからとか言える、議論の枕に使うことさえ憚られる、とは考えない人が結構いるわけね、と驚いた。



論理的に考えればなんだって相対化できるしその中には善悪というものは存在し得ない。それがまずデフォ。でもって人間が寄り集まって作る社会にはその上で固有の価値観が組み上がり、その中で善悪ががっちり組み込まれる。これが、いわゆる普通の定義ではそうはいわないが、一面から見れば宗教の違いとも表現できる。


さてこのとき、多様な価値観、多様な宗教を認めましょう、いや認めない云々という問題があったとする。相対化をどこまでも押し進めたい人は、多様な価値観のままで人々がくらせればいいのだとあっさり考える。が、集団A出身のaと集団Bのbが接触した場合に、aは常にAを奉じるとも限らず、bも同様。これが複合的に起こると、その「場」には、どっちでもあるようなないような秩序が生まれる。これは変化である。


この時問題となるのは、aはAだ、または、Aの価値はどうあれ守られるべきだとの強攻な見解で、今日のトレンドとしては、これは「伝統だから」と表現されるかもしれないし「宗教だから」となるかもしれない。そうすると多くの人はちょっと引く。が、これって、実際には、個人を苦しめるだけだったりすることも多いかもしれない。つまり、Aの末裔だとしても、自分の判断で複合型なんだぜ俺はという人を、強引に、Aであることを理由に引き止めようとするからだ。


非常にささいな(というと、絶対相対派からおこられるわけだが)事例で考えてみる。カナダ、アメリカでしばしば、カリブ海出身の人はしばしばカリビアンの時間で暮らすといわれている。たとえば、何かのを開始しようといってもまずその時間に始まるなんてことはない、3時間4時間遅れは当たり前、みたいな世界だと。でもって、この説はカリビアン自身も、あはは、そうなんだよ、とか言うし、遅れて腹をたてている人に向かって、平気のへいざで言っているところを私も見ている。


これは伝統なのだそうだ。だから、あっけらかんと、俺らってそういう人とこれを引き受けている人は伝統にとても忠実なことになる。


しかしながらその中でもし、自分はそれはいやだ、一般的なカナダ人程度には時間に忠実にしたいんだ、という人も当然いるし、3時間4時間は当たり前方式だと就業機会は圧倒的に狭まるので、やめたいと考える人もいるだろう。私の知り合いでも、この「伝統」を憎んでいるカリブ海出身者がいる。


この人は、考えようによっては、カナダの文化または地場に「屈した」ことになるだろう。しかし、それって、悪いことか? そして、「屈した」のはカナダに対してなのか? 一見すればそうとも見えるだろうが、彼彼女にとっての選択肢の中から、彼彼女の人生にとって適切だと思う生活習慣を選択したと考えたっていいだろう。


だいたい、こう書くと、カナダの文化はではずっと律儀ものだったみたいに錯覚してしまいそうだが、そうでない人もいれば、ずっとそうだった人もいるだろうし、そもそも時計が広く普及する以前にそんなにきっちりした生活習慣などあるわけはない。ということは、これはカナダの習慣というよりも、近代の習慣と考える方がずっと適切だろう。


とか書くと、さらに今度は、近代は西洋人の近代のことだ、俺はそんなものには屈しないという人もいるかもしれない。それならそれでいいだろう。しかし、非常に多くの人が既に「屈して」久しい枠組みを改正しようというのなら、彼彼女個人が選び得る人生の選択肢は単純に少なくなることは予想される。


雑駁にいえば、「伝統」ないしはそれに類した語を多用する人は、人はあるいは人々は変わるのだという姿勢を飲み込めないか、拒絶しているといってもいいのではないかと思う。


いますね、こういう人。自分が絶対変わりたくないといろんなものを拒否するから自分が苦しくなるんだが、そうすると、自分が拒否されていることに怒り出す。自分の行動がもたらし得るリスクについての考察がない。



と、えらく話は回りくどいが、問題は食人習慣だ。これってホントに今日のチャイナでもある話なのか?というのに私はまだ懐疑的なのだが、よしんば発生するとして、問題はその発生の度合いではなくて、絶対駄目と言えているのか否かだと私は思う。


でもって、駄目と言えていないんだったら、是非早急に考え直してほしいし、そうするべきだし、そうしななければならないとまで私はいう。なぜなら、この岩盤は今日の世界にとって大事な岩盤で、これを揺るがすようなことはあってはならないと私は堅く信じているからだ。


もしどこかに、チャイナの食人習慣を改めさせるの会があるのなら会員になってもいいし、来年のドネーションはその団体にしてもいい。



おそらく多くの人は私と同じ感覚をお持ちであろうと私は想像するが、しかしなかには、ではなぜそれがいけないとあなたは言えるのかと考える人もいるだろう。



私には、この件に関して説得的な答えはない。それは多分、たいした用事でもないのに人を殺していいか悪いか、という問いに対して、よくない、と答える時と同じだろうかと思う。しかし、それにもかかわらず、これは大事なことだと私は判断するし、そう考えるからこそ、もしどこかにそう考えない人がいるのだとしたら、考えなおしませんかと呼びかけることもやぶさかではないと言っている。


そして、もっと実際的には、そう考えない人と自分がどういう事情であれ親交を持てるとは到底思えない。その意味で、もし現実にそういう人を目の前にしたら過剰に差別的になることも自覚する。で、それが故に私が差別主義者だといわれるとしたら、もはやそれまでだろう。この件に関してどこかで妥協できる自分を私は想像できない。


(ただし、私がいっているのは、精神状態の過度の不安定を含む究極の選択として人の肉を食うそれそのものが故にその人を避けるといっているのではない。そこに善悪があるかどうか、だ。)



で、これは正規の戦争よりもよほど深刻な話だとも思う。でもって、ぶっちゃけ、他集団との交流が非常に疎であり、かつ、非常に小さな集団内で食人習慣が長らく行われており、その集団内でも別に問題になってないというのなら、私にしても、あるいは国際社会にしても、まぁちょっと様子見なんてこともあり得るだろう。


しかし、チャイナって大国だし、そのうえ、「国際連合」なるところで拒否権を持つという大事な大事な役割を担うところだ。ここで、食人習慣も伝統です、はなかろうと私は思う。


蛇足ながら、食人習慣はおそらく多くの社会に存在する慣習法を含む法と秩序にとって絶対駄目の領域に入っていることの多い問題だろうと思う。つまり、ボトムラインだ。ってことは、これを相対化する人は、ほとんどすべての問題を相対化しなければ理屈にあわない。


ってことは、例えば、こういう相対化をする人が、例えば、人権がどうしたこうしたなんて法律を擁護するわけにはいかない。まったく平仄にあわない。


この相対化の行き着く先は、ある集団Xにおいては、移民してきた人は、けちょんけちょんにいじめられることになっている、どんな窮状もおかまいなし、それがXの伝統であり、それは伝統であるが故に認められるべきだ、と言っているに等しいわけだから。


ってか、これって、むしろ日本に住まいするある種の人々の傾向の問題であって、私が知り得る限り、チャイニーズがこれに対して、カリビアンタイム並のおおらかさで、ええまったく伝統で、とは言わないと思うんだが・・・・(そう信じたい)。


ああ驚いた。