尋常でない

JR西の親睦団体、事故当夜に宴会…国会議員も参加
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050508-00000103-yom-soci


居酒屋予約表から「JR」消して…事故3日後の懇親会
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050508-00000203-yom-soci



ずっと無視しようと思ったけど我慢がならない。なんでこんなに毎日毎日、ボーリングにいった、居酒屋にいった親睦会に行ったと嗅ぎ回られなければならないの、JRの社員。3万人だかの社員総数だと聞いたけど、JR関係とかいったらもっと多く、家族込みとなったらさらに多いんだよね。その人たち全員に何をしろというのだろう?


また、ある事故、ある出来事に際して日常の行動を慎むか否かは基本的にはその人たちの判断でいいだろうし、その慎み方だって十人十色だろう。端から見たら普通にしているように見えても、静かに悲しんだり苦しんだりしている人がいるのは普通のことだ。わからんのか、記者諸君? そんなこと他人がとやかくいうことじゃないってなことを延々やっているんだよ。幼稚園児に行動規範を教えるのならいざ知らず、大人になってしまった人の言辞や行動を批判するというのはそれ自体とてつもなく難しいのだし、著しく他者の権利を侵害する場合や、他者を危機に陥れる基本的にはなされるべきではないし、やりすぎれば場合によっては、持続的な思想信条、表現の自由の侵害であることさえあるだろう。ってか、発想が他人の行動を取り上げて、ネガティブなネタをまき散らし、「チクリ」を歓迎し、みたいな世界の人そのものだから、実際問題、自由主義世界的ではないとさえいってもいいんだろうと思う。ま、そこまでは踏み込まないけども。


もれ聞くところによれば、お見舞いに紅白結びきりの水引を出したといってはテレビがJRを責めたそうだが、無地にしたらしたで常識がないとかいわれそうなんだが・・・。そんなにつっこみたいのなら、いっそのこと、お見舞いにお金を包むことが慣習化されていることがそもそも問題だとでもいってみればよかったんじゃないのか。こんな袋まで決まってるってへんですよね、とか。どのみちそこまで一般大衆に疑問を投げかけることはできない上に、実際どうしたらいいんだろうかという想像力もない。ただ目の前にある、絶対にかばわれないだろう誰かを叩いているだけ。水に落ちた犬は叩くに限るってことか。なんという卑しさだ。



こういうことは週刊誌がこそこそっと書いていてこそ様になるみたいなネタで、でっかい通信網をかかえた大新聞社が毎日大喜びでやるようなものではない。


大新聞のやることは、その大きさ、影響力と人員の多さを利用して、頻発している置き石犯人の追求の方だと思う。こっちのほうは、ありました、発生しました、と報道しっぱなしってどういうことよ?


ついでにいえば、それら記事を書くために、打ち合わせも必要だからお茶も飲めばメシも食う、飲みにも行くな、きっと。やっと入稿終わったよぉ、とかいって集団でご飯食べにいくよね。原稿料をどのぐらいにするのかで相談の電話なんかもするし、写真を買い付けもするし、ご機嫌伺いに手みやげやらお車代も出すな、結構おめでたい調子で。それらをどんな感じでやっているのかを想像すると、とてもじゃないが、粛々とも慎み深いだろうとも想像できない。この件でものすごい乱痴気騒ぎをしているのは他の誰でもない、マスコミってところの人たちじゃないのか。


蛇足ながらこの居酒屋はどこだ。これを書かなければフェアじゃない。片方は割れてるのに。客の素性を軽々に他者に話すような居酒屋なんかに私は行かないことにしたいので、是非教えてほしい。行かないようにしませんかキャンペーンをしてもいいぐらい行かない。


<追記>
その居酒屋に電話をしたブロガーさんがいた。by隊員さん情報。でもって、居酒屋さんは領収書をテレビで出されて困惑しているそうだ。
http://plaza.rakuten.co.jp/naripon/diary/200505060000/



<追記2>
goriさんがこのへんの「勘違い記者」について例によって写真付きで紹介されていた。
http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/000522.html


こういうのはよくないことだ、というコンセンサスがブロガーの方にはあるわけだが、マスコミ関係者には全然ない模様。「その一方でこんな勘違い馬鹿もいる」以下の毎日新聞なんか読むと、それどころか、何か完全にその職務が崇高であるかのような錯覚に陥っている人もまでいる模様。


持ち場持ち場でみなさん大事なお仕事をなさっているのですよ、と理解しあえないのだったら、長い目ではその社会は機能しなくなると思う。マスコミで働く人って、ほんとーーーに、他人の人生のトラブルを糧に、社会の上澄みをすくって生きてるんだってことをちゃんと自覚すべきだと思う。何ひとつ崇高なものはない。あ、全体としての学者、殊に文系のそれも同様だ。


ただ、その崇高でない職ないしは仕事も社会には必要。そして実際多くの職種はたいして崇高でもなければ、同様に罵倒されるようなもんでもない。全体として必要だから職として成り立っているのにすぎない。


あとさ、ある種の「関西弁」って、必ずしも根っからの関西地域育ちじゃない人が使っている疑いもあるのだが、それを使用した時の効果って・・・。紛争の現場では話者は勝った気になるのかもしれないが、なんてーかこー、だめっしょ、それ、って感じは相当する。