インプラント渦中の思い出

 私の感じをいえば、大人になったところで、「ほんとはね」と、教わり、おそらく少なからぬ人と同じように、そんなことがあったのかと驚愕し、それは大変だと考えた。しかし、冷静になってくると基本線として得たWWIIのピクチャーにどうも合わない部分も出てくるし、そのうち、被害の数が増えてきたり、不確かな話もでてきた。そのうえややこしかったりする局面になると、やけに贖罪意識に訴えるような主張でカバーアップされているのがどうにもひっかかった。また、事件や事故を検証するために必要とされている手続きを踏んでいない書物や記事が目につき、しかもそれが単なる省略版でもサマリーでもないことに気付く。

 そうだ。大人になっていたものにすれば、気付くことが多すぎたのだ。


 わりと多くの人が、本多勝一氏の本で人々はだまされたというけど、私はこの言辞に対して懐疑的。なぜなら、私自身は、氏の本を読んでむしろ、これってホントなのか?と思い出したからだ。オリジナルの新聞の当否はどうなんだ、とか中国でであったというその人の裏はどうなんだとか考えたら、なんかおかしいと思った。おかしいと自分が思ったという点について、もう15年かそこらも前なのにかなりはっきり覚えているのはそれで友人と論争したからだ。私はこの本からこの中身が事実か否かは推論できないし決められっこないじゃんかと言ったのだが、友人は、それはそのジャーナリストを信じるか否かの問題だ、つまり本多氏はそう書くだけの裏を取っている、ただ限られた紙面ではそこまで書き込まれないだけだし、書けないこともある、と言った。



 この友人は本職の雑誌の記者だった。現在でいえば「右」と呼ばれる雑誌によく書いていた。また私も書く現場や編集の現場に縁のないものでもなかった。だから彼のいうことが荒唐無稽でないことはある程度わかる。しかしものには限度だし、ともあれ私にはその本はそういう代物には見えなかった。が、彼は、この本を最高である、みんなが読むべきだと常々いいなしていたし、そうしてだからこそ、読めといわれて私は読み、読んだから感想を言ったらひと悶着になったのだったが、議論は平行線だった。


 いったいあれはなんだったのだろう。どうして、日頃の手続きを超えたものを彼は信じたのだろう。普通の正直さや普通の手堅さをどうしてそうも簡単に放棄することができたのだろう? 今となっては付き合いがないから確かめようはないが、この話題が出るたび、どうしているのだろうかと思い出すし、どこかで、宗旨替えをしていればいいのだがなと密かに祈ってもいる。