コミュニティと個人

おとといのところにコメントしてくださった方の導きでご案内のサイト行ってみました。

コリアン・ザ・サード
在日韓国人三世が韓国(と日本)について自分の考えをぶちまけるブログ
http://korean3rd.seesaa.net/


軽い言い方で恐縮だが、大変だよねぇ、と声をかけたい気がした。いろんな人がいるからうかつに声をかけるのは控えたいが、そう言ってもいいのなら、がんばってね、とも言いたいと思った。(躊躇があるのは、がんばってる人にがんばってねと言うのはプレッシャーだとかいう見解が世の中にあるらしいから。私についてそういう見解は取りませんが)


でもって、意外だったのはそこにトラックバックしているサイトを見ると、こういう感じの話を聞いたことがない、という人がいるらしいこと。そうだったのかとちょっと思った。私は結構知ってるつもり、ではあるんだが。ま、年齢分とでもいいましょうか。でもって、だからこそ、そういう考えの人を圧するような人々に尚更腹が立つ。


結局のところこれは個々の「在日」の人の問題ではあるにせよ、より大きなファクターはそれらの人々の上にあるらしく見える機関の問題でしょ? あるいは、その機関と個人の意見が食い違っていると。


こういうことは、多民族コミュニティーをかかえるトロントでもしばしば起こる。たとえば代表的なのは、イラクで戦争します問題とか、イスラム法をコミュニティで温存するのはどうか問題とか、聖戦ってどうですかとか。で、こういう時に、メジャーなメディアは、コミュニティ統括機関的な意見と同時にそうは思わない個人の意見を掲載することが多かった。それによって、それ以外の人々、例でいえばイラク人コミュニティやイスラムコミュニティ以外にある人々は、テレビや大メディアでの露出量が相対的に多くなる可能性の高い代表モデルの声に対して「みんながみんなそうだってわけじゃないわけよね」という例証を示されていることになる。だから、これをとっかかりとして、一元的に「イラク人は」とか書き出す人がいれば、そんなこといったって反対している人もいるでしょ、あそこでもここでも、と言うことができる。


ある意味あざとい。偶然対立する意見があったのではなく、わざと出して来ると言っていいだろうと思う。なんのために? 


個別のではなく全体としての社会内に一元的な差別感情というか差別妄想をまき散らさないために、が、まず一つかと思う。そうでない人がいることを明示する、と。


しかしもう一つあって、この効果として、どんなコミュニティに属していようとも、つまりどんな血統だろうと、あんたはあんた、個人で意見しろよ、を推進してしまう。ターゲットになる人にとってもそしてその案件について見る側にまわる人にとっても。その意味では個別コミュニティ解体政策なんだろうと思う。


しかし個別のコミュニティはそれにもかかわらず有用だし、好まれる。移入者が最初に落ち着くためには必要だし、それ以降も同じ悩みを共有しあえる確率は高い。だからなんかあったらそこに行って誰か経験してる人に聞いてみろとすすめられる。で、そこには、個別コミュニティの価値観と、カナダ的にはこうですよ、の両方を知っている人が配置されている(やまのようになんとかカウンセラーという職種の人がいる)。で彼、彼女らが仕切っていって、結果的には、個人が独立的に考えて判断する方向ってのに持っていかれる。で、個人が選択したんだからそこには不特定な差別があるってことにはならん、と。


そうしたことから考えると、日本の大メディアがそれら個別のコミュニティ代表者の意見ばっかりひろっていたように見えるのは、そうでない個人にとっても、そして全体としての社会にとってもまったくマイナス効果だったと言っていいのじゃないかと思う。問題となった、いわゆる国籍による「差別」にしたって、そうは思わないという人の声を拾うよりも、全体としての在日朝鮮人、韓国人は、というイメージをばらまくことに忙しかったし、新聞の社説などはあきらかに後者の人の声を代弁していた。その意味で、余分な「差別」を誘発させるための装置にさえなっている。なんでだよ、おい、だし、冷静に考えれば、誰のための新聞なんだと疑問に思うなって方が無理だ。


また不思議なのは、日本の中で一般に「弱者」、「マイノリティ」を保護すると語る人々の方向性というのは、全体としての「そこ」で個人がたてるようにオプションを並べて選択させるというよりも、文字通り「保護」に眼目が置かれている感じがしないでもないこと。さらには、マジョリティを糾弾するためのエンジンにさせられていることもあるように見える(例:日本人の閉鎖性を打ち破るためにどうしたこうした)。これって、なんてーか、そうでなくても取り得るオプションの少ない人を何かの目的にために使うっていう態度に私はものすごい腹をたてている。


余計なことだが、これも一種の人海作戦なのじゃないのかとさえ思う。根本的にこういう発想、逃げ場のないpeople、人民、民衆、一般人を前に立てて戦いをさせるってのが嫌いなんだわ、私は。戦うなら自分で論旨を述べ他者に問えと。


都知事石原慎太郎氏の会見。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/ASX/m20050128.ASX


2年、いや3年ぶりぐらいに声を聞いた。あいかわらずこの人はどうしてモノ書きであるにもかかわらず物言いが杜撰なのかというのが気にかかる。例の裁判の件についても、公権力を行使する側に回るということはどういうことなのかというところに論点を持っていって語れば論理的に一貫できるだろうに(賛否は当然にあるとして)途中から腰くだけ。ただの外国人嫌いのおっさんみたいなことを言っていた。しかし一方で、能力があるのならそういう人は帰化をしてもらえばいいのだしと、決して実は「民族主義」ではないことをちゃんと露呈してる。そうこの人は単に戦時中にいっぱいいたところの、国家社会主義モデル風のおっさんなんだろうと思うんだな、私は。だからこそ、ヒトラーとか言われるんだろうけど、だけど今日たいていの先進国って適度にそういうモデルに乗ってるんじゃないの? そうでなかったらどうやって社会福祉政策とか公的インフラを大前提にしてものごとを発想できるというのだ? 


それらを考えると、シンタロー氏に必要なのはスピーチライターだと私は結論する。もう少し説得力のある言い方をすれば見栄えはずいぶん違うはず。


ま、しかし、朝日新聞の記者の情けなさが主要な要件になってしまって、おそらく多くの人はこの件に関しては、このビデオを見てもシンタロー的詰めの甘さ及び危険性を今回ばかりはパスしてしまうだろう。私はそっちの方を危惧する。だから彼の発言に制限枠をもうけるためにスピーチライターを進言したい。メール書いちゃう?


朝日の情けなさ・・・。聞いてみそ、このうっかりとしたつっこみ。シンタロー氏に、朝日は朝日でメディアとしての考えがあるんだろうがそれは紙面で問えばよいと言われて沈黙してた。