鎖国メディアの終焉

寒いには違いないのだがトロントあたりとしてはとりあえず来るべきものがきてますという寒さなので、備えもあれば憂いもある、あれ? 備えがあれば憂いはないはずだが…。しかし、憂いというものがそもそも来るべきものであると予期されているものなら(寒くて部屋に閉じこもることになるは、日照時間は少ないはetc.)、備えあれば憂いなしにならずともいい。


例えば、今からトゲを抜きますよという場合には、備えても痛いし痛くなければ他の異常を考えないとならない。だから、痛くて正常だ。ということは、ともすれば憂い、痛いといった語、ネガティブな状態を指す言葉を見るとそれを排除、それを是正したくなるが、それは意味がなく、むしろ他の異常を誘うだけになる可能性もある。だから、備えあれば憂いなしの本義は、どれだけ当然の経緯であると対象となる人々に理解させられるか、ということといえるだろう。だからなんだ。いやそれだけ。


ま、でもそれだけでもなくて、ストレスと見れば解消、憂いといえば解消、よくない雰囲気といえば解消、なんでも解消しようとする人を見ると、私には、この人には最適化とかバランスというアイデアは絶対に理解できないんだろうかなぁなどしばしば思うのだった。