同じ事象と異なる理解


上のような考えを持つ私としては、例えば、内田樹氏の言う、

政治的意見の公表についての私の立場はわりと簡単である。
「言う人」は好きなことを言いたいように言う。
その適否については「聞く人」に判断してもらう。
おしまい。

2005年01月18日
言論の自由と時間
http://blog.tatsuru.com/archives/000684.php


といった意見と同じことを言っているものと思う。


このご意見は、「国立でむぱ研究室櫻分室」さんで知った。いいですねこのタイトル。またクリッピングも面白い。いろいろ教えていだいたてありがとうござい泙后
http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050118


ただし、内田氏は上の結論を出す基礎として、

人々はしばしば判断を過つ。
それはしかたのないこととして受け容れなければならない。
というのも、今「人々はしばしば判断を過つ」と言ったが、そう言っている私の判断の合法性を私自身が基礎づけられないからである(間違っているのは「私」で、正しいのは「人々」の方なのかもしれない)。
「私が正解で、あなたがたは誤答をしている」と決定する権限が私にはないし、あなたにもないし、誰にもない。
じゃあ、誰が決めるんだ、と気色ばんでも困る。
なんとなく、「流れ」で決まるのである。


といった点に置いていることは私自身はあまり賛同しない。

「両論併記」というのは言い換えれば「誤答にも正解と同等の自己主張権を一定期間は保証する」ということである。
あまり知られていないことだが、「言論の自由」の条件の中には、適否の判断を「一定期間留保する」という時間的ファクターが入っている。


氏のアイデアは、「正解」というのがあって、それに対して現時点では人は判断を「誤る」から時間軸を長く取って様子を見ようということかとみえる。


これに対して私は、個人は同じ事象に対して別の理解をするものだ、どこまで行ってもそれはそ箸涅


しかし人が相集って生きる以上合意しなければならない個別の案件はある。個人はより適切な合意可能な地点を自ら見いださなければならない。両論の併記は、この時、仮説的な見解のレンジかもしれない。ここを叩き台として議論を続けるためにこそあると。別の言い方をすれば、この過程を通じて個人はある案件に対して自らの見解を修正するかもしれないし、修正しないかもしれない。修正しない人はその時点では負けたと感じられるかもしれないが、彼/彼女が捲土重来を期すも期さないも自由である。従ってある時点である判断に対して勝ったと思った側もまたどこかで覆される可能性を当然に内包する、といったことを考えている。つまり個別の判断に対して、正解とか誤答といった語彙の入る機会はかなり少ない。ある個別の議論の妥当性に対して正解、誤りはあるのだろうが。


「ジャッジはあなた」という結果においては差異はないと言えると思うんだが、意味が違うといったところか。私には、「両論併記」というのは言い換えれば「誤答にも正解と同等の自己主張権を一定期間は保証する」ということである。」という表現はかなりひっかかるものはある、ということかな。これでは最初に正解があるとわかっている人(か法則か?)がいるのに人びとは誤ると言っているような感じがするわけで、その意味では氏は時間軸を長期に取るとは言ってみたものの「正しいものがある」というのが想起点なのかと言って言えないこともないように思う。これに対して言うなら私はそうね、徹底的に懐疑論的かもしれない。あるいは、他者の正義に私が頷く必要ってないからさ、っていう雑な感受性の産物か。