ところで私は映画を聞いている

上の続き。

だから、目、視線で語られる映画の話を読むと、ふ〜んとそこにある話者の構図自体は理解したとしても、ああそうですか、以上には私の感想と言うものはない。ついでに言えばこの種の言辞は結構「エライ」か有名かといった人から出て来るのを通例としていて、そうこられるとそういう感じのないのはおかしいのか、私などと考えかねず、どこかで実感値を無理矢理求められているようで窮屈なので必要がない限りあまり熱心にも考えてこなかった。


で、孫引きどころか曾孫引きになるが、仲俣氏が引用していたジジェクの『斜めから見る』の中の一節だという、

ラカンによれば、対象を見ている眼は主体の側にあるが、視線は対象の側にある。私が対象を見るとき、かならず対象はすでに私を見つめている。その点に立つと私には対象が見えないような、ある点から。(※太字部は原文では傍点)

http://d.hatena.ne.jp/solar/20050105#p1


なんてことになるとさらに、すでに 脱力 。
対象は私を?弔瓩泙垢??修Δ任垢?△修譴覆蕕修Δ任いい任垢?△覆里世福∋笋砲蓮?妊?襯 は我思う故に我ありじゃなくて、我思う故にモノあり、以上、と締めてから人びとに案を提出すればそれでよかったんだろうになと考えてみたくもなるぐらいで、モノに見つめられるようなそんなワンダフルな話には私はまったく関与できない。ってか、それならそれで面白いじゃないかとさえ思う。恐怖? いいんじゃない、みたいな。


モノはモノ、ここには私以外の人間をも含むあらゆるものが入る。そして私は誰かにとってモノであり得る、同時に、私は=あなたは無であるにしても。インタラクションは存在せず、存在する、私が=あなたがそれを 言語 化した時に。そんなことでよくないっすかね、かな。


このへんはどうでもいいんだが、そもそも、映画を「観る」ってのもざらつく言語習慣かもしれない。確かに像を前にしているのだから映画は「みる」と言わねばおさまらない。しかし、なんでそれが観劇の観なのだろう? 単純にいえば映画館で観劇をした時の名残なのか。ではそうなら観劇という語はどこから来たのか。なんとなく探っていくと、実は半ばこじつけで、みる、という音と同じである「観る」を採用しているのではないのかという気もする。そしてこの採択が、話を聞く、話に立ち合う効果を忘れ去り、みる、へと特化さえることに特化してないか、など疑義を持つ。(まったく思いつきだが。)


ところで私はどうやら映画を聞いている。だもんで、他人様の話がいつも面白いとも限らないように、おもしろくないと思って映画を途中で放り出すこともあれば、面白くないわけでもないが話が長すぎる、時間がもったいないと思うのと同じように、この映画を前にする時間が無駄だな、と思ったらその映画に会わないし、ふとした弾みで会ってしまって好きになってしまうこともある。というわけで、私が映画を見る理由は特にない。それはちょうど誰かに会いに行くという行為に対して普通たいした理由というのはありそうにもないのと同じように。偶々会えればそれでよしと言えるほどほどよく枯れてもいないのだとしても。


脈絡がぐじゃぐじゃだが、視線と眼に過剰にこだわる人びととは、他者と自己の相関に関して時間軸を捨象してしかもそれを極大化しすぎなのじゃないのか。明日がないというか。