空位の代わりの国連


本日の隊長。


まだ「国連主導の国際貢献」とか言ってる議員が多いのか
http://kiri.jblog.org/archives/001324.html#more


まったく。

このニュース(国連の直近のスキャンダル)の扱いを巡って、不正なのか否かについての私の小姑めいた苦情は一昨日書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20050111#1105433733



でもさ、なんとなく思うわけだが、これは別に国連に対して大きな希望を抱いている人がいるとかいないとか言う問題じゃなくてさ、国連ってのが徹底的に「外」、現実味なし、なんだろうかなと思う。問題の逃し先に言ってるだけじゃないのかとの疑義は捨てがたい。


いささか話は遠いようだが、たとえばこういう構図から考えてみる。

昨日の分にコメントをいただいた中にも書いたのだが、例えば、「日本の教育では〜」といった文章を書く人というのは非常に多い。こういう文を見ると私はしばしば、では日本でないところではどうなっているとこの話者は措定しているのか、と考える。で、ある程度心あたりがあって、A〜C群の中の日本について語っているという見取りの取り方の場合は、その「日本の教育では〜」は意味を持つ。


その前に、比較対象の意図がなくても、generalize、一般化しないことには私たちの言語生活は大きな支障を来すのだからそれはそれで全部使うな、とかいうのじゃない。が、それはどうあれ比較が可能な存在ではあるのだ。つまり、日本は、といったらそうでないものを、ドイツはといったらそうでないものとの比較準備体制に取り込まれる。


さてこの時、特定の比較対象がないこの言辞は何を意味するのか。なんでしょうね、話者の理想との対比が行なわれているということじゃないのかなと思う。少なくとも他者には、話者が何を対象に「日本の教育」(例えばだが)を批判しているのか知りようはない。つまり、とても恣意的な言論をそういう外見でなく編んでいる、かもしれないよな、と思うのだ。多分話者自身は気づかないのかもしれない。


で、その国連主導の、なのだが、現状、例えばアメリカに従属的な状態等々(任意に)それはイヤだ、といった時に、それを批判するのであれば、批判のポイントを個別に絞って問題を解決するか、もっと大枠でこれじゃないものとの比較が考えられる(前者を問題分析志向、後者をalternative志向と呼んでみたい気もする)。この場合の、あるいはしばしば使用される「国連主導の」とは、この後者の位置なのかなと思う。つまり、比較対象を空位にはしていないのだが、空の代わりに国連と言ってる、と。


もし本当に国連主導のと考えるのなら、今般の問題を見逃していいわけもないし、そもそも国連とは会議の場であって、主導されたいの、といったところで別に主体があるわけではないから恒常的に主導はしてくれない。冷静に考えれば、ある案件Aに対して、今回はアメリカの飛び出しよりも国連に主導してもらうべきだ=各国で話しあおうぜ、は意味を持つが、「国連主導の」は不特定には使えない。そういや、国連中心の外交とかいう言い方をする人もいるね。


こういう感じって、問題解決型に対しての、千年王国待望型とか言いたいものもある。