まんざらウソでもないから良しとする


むなぐるまさんが、私のブログを紹介してくださったようで、とてもうれしく読みました。どうも御世話さまです。私の方は何度も[追加:書いた通り]むなぐるまさんのところを見に行けなくなる不幸は避けたいので、エキサイティングなリアルライフを持ち込んでどしどし書いてくださいね、と、大きいスマイル&ハグ(←ええ!)を送りたいと思います。社会的習慣と思って受け取ってください(あはは)。
http://munaguruma.air-nifty.com/blog/2004/12/post_3.html


さてそこで、「R30::マーケティング社会時評」さんというブログを知る。大変興味深い話題を丁寧に読み説いていらっしゃった。


しかしながら、これはちょっと、う〜んと考えさせられるものがありましたです。批判をしたいという意図ではないのですが別の見解として書いてみたいと思う。


映画評:ニュースの天才
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2004/12/shattered_glass.html#more


タイトルのノンフィクションの映画の内容から、日米の校閲体制あるいは記者が取材した後どうなってメディア上に記事としてあがるのかの仕組みを説明されている。アメリカでは、記者が書いた原稿を、リーガルとか、その他関係者のチェックが入るのはすでにシステム化されているが、それにひきかえ日本は・・・。

日本の新聞や雑誌で、上のような校閲体制を敷いているところは、恐らくどこにもない。米国では、ある程度まともなメディアは、少なくとも法務チェックは当然のように仕組みとして持っているし、大手の雑誌ではそれに加えて記者からあらゆる取材メモ、テープ、写真等を提出させて記事との整合性をチェックする体制を持っている。「記者の出す生原稿に対する信頼の置き方」は、日本の方がはるかに高い。


一応、ありましたしあるんですよ、と私は申し上げたい。ついでにいえば私もその校閲の経験がある。各種法令などの社内学習を積んだ校閲者又はグループが生原稿を読んで、現場に戻して内容的に問題がないところまで落とし込んでからでないと次のステップには乗せない、で、問題があった場合にはいわゆるマネージャーレベルというのかデスクレベル、社とクライアントの「政治」マターになる、でもって、校閲組としては、そんなのおかしーじゃねーか、ということもあるんだが、政治という名の営業行為になると仕方がないこともある、さてどこで妥協できるだろうか、となって、その妥協が是々非々では大きな組織は動けないのでルール化するために会議するする、ってな具合。


ただ、それがマスメディアの中の政治関係、経済記事等々を専業にしている媒体にあるのかどうか、常に機能していたかどうかは・・・、多分問題の切り口は別のところにあったりするのではなかろうか。それは多分過剰に政治的だったことじゃないの?隼篌?箸蝋佑┐襦


で、氏のお話は、結局のところ、

僕も以前は「日本のマスコミも、米国並みに記事内容に対するチェック体制を厳しくすべきだ」と思ったりしたこともあったが、これっていうのは製造業において「品質を上げるために、生産ラインの一番後ろの品質チェック係のさらに後ろに品質チェック係の品質チェック係をつけました」といって胸を張るのと同じぐらい意味のない議論だと思い直した。

というわけで、チェック体制の有無にこだわっても仕方がないということになっていたのだが、とりあえず、日本にチェック体制がないわけではないことを私としては言っておきたい。ほんとにないと言いきれるのはネット世界だけじゃなかろうか。


また、チェック体制が一見して体制らしく整っているように見える(ここもかなり疑問だが)アメリカでも「誤報」というものは発生するし、ほとんど限りなく「やらせ」の天下じゃないのかという感じは日々する。したがってこの光景は日本のでもあり私にはアメリカのとも見える。

そこで「もっと面白い社会ネタを出せ」と会社に言われれば、これはもうネタをでっち上げて出すしかない。ま、今の日本では幸か不幸か、新聞記者に部数のノルマとか「売り」の圧力が全然かかってないので、そこまで「面白い社会ネタ」が上から要請されることいのだけれど、毎号売れ?匹Δ??笋錣譴觧堡了┿錣覆匹任蓮⊆尊櫃砲發Δ任辰曽紊欧離優燭世蕕韻寮こΔ???辰討い襦


メディアが主導でファッションから意見から見解からの流行を作るってのはここの殆どデフォルト体制なんだろと思う。北米のクリスマスなどはまさにそうやって出来たもののうちで、最良のものの1つだろう。それにもかかわらずこれでいいかと人びとが苦情を言わないのは、まんざらウソでもないから良しとする、いいところもあるからこれでいいことにしておこう、といった漠とした諦観があるからではなかろうか。これは北米で生き延びるために必要な1つの精神安定剤ではないかとさえ思う。実際たいていのことは、「まんざらウソでもない」のだ(e. g. 小さいグループでも熱心に好んでいる人がいれば、爆発的人気と書いて悪いとも言えない、苦しんでいる人がいる、も同様。感謝されている、大きな憤激を呼んでいるも同様。大きな話題だと言わせるためにはとりあえず記者会見をやっておく、当社比は当社比です、等々)。


そして、この間っからボソボソ言っているが、日本における「事実」とか「ファクト」という語が持つ意味は、もしかしたらちょっと独特なのかもしれないなどとも思える。これは来年こそ真剣に考えよう。ずっと棚上げしてるな。


あと、媒体が厳しいチェック体制を敷くことは、ファクト関係の堅さを保証する一方で、ポリティカル・コレクトネスを頑丈にすること、つまり、社会的なメインストリームを刷り込むためにも強力に訳に立つ。別の見方を事前にチェックして排除していく便利なツールではある。チェック体制とはおけるメインストリーム形成方法と表裏ではある。


で、そのことがよくよく知られてしまったからこそのブログの隆盛だろうと思う。ということはそれにもかかわらずこういう映画が来るということは、チェック体制さえきちんとしていればなんとかなる、といったなんだか朝日新聞の社説のような結論を人びとに持たせたいのかと言ってみたい気もする。


また、別の見方では、こういう映画の日本における受容のされ方というのは、前にむなぐるまさんがおっしゃっていた、日本の民主主義が遅れているとかいうのやめませんか、といったアイデアと同じ文脈で考察されるべきなのではないかとも見える。つまり、アメリカ(または「欧米」;そんなものは欧米にはない)を明るいサイトにおいて、自分を見て、違う違うと言ってみたくなる殆どテンプレートと化しているいるかのような「コンテクスト」だ。おかしな言い方だが、これがテンプレートとして認識されているからこそ、物書きは安心してこの線で書く。それは読み易く、人びとは簡単にそれを納得できる。一方で、見知らぬコンテクストを読み込める人は常に社会的にそう多くはない。それでは売れない。

ニュースは15分かそこらなんですよ、そこにもし聞いたことがない言辞があふれていたらどうなりますか? もしあなたがニュースを聞いてすぐによくわかったと思ったのなら、それはあなたが既に知っていたことなのです…。これは言ったのはチョムスキーだったと思う(多分、『マニュファクチュアリング・コンセント』で)。


彼ぐらいそれを知っている人はいないからこそ、自分でそれをわかっているからこそ、毎度同じことを言っているのかと皮肉なことを言いたいものはある。


なんて皮肉な?螢好泪垢澄