無業者(ニート)に関して

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このへんが隊長の隊長たるゆえんなのだろうな。思えば、隊がなければ隊長ではないし。

私にとってニートな人たちというのは近くて遠い存在なのだが、ちと気になることがあるからである。雑記のようになってしまうが、一応。

といってはじまる隊長の、言うところのニートの人々についての考察。とはいえ、経営ものに見られるような論理性はあんまり見られず、隊長自身が困惑している様子が見て取れる。

 本来なら、二十代後半や三十代になんなんとする無業者は働き盛りのはずである。どこでも「問題ですね」と言われはするが、対人関係を構築できませんと自称してしまうほどの彼らを外側から救い出す術というのはあるのだろうか(本人が救われたいかどうかさえも判然としない。まずは親が死ぬまでは大丈夫だろうという漠然とした不安感と、一種の当事者意識の欠如が見られるのは精神的に自分を守ろうとする作用そのものかもしれない)。

という現状に対して、大金持ちであると聞く隊長であれば、

突き放した見方をするならば、働かない奴は仕方ないので放っておけという話になる。働かなければいけない状況に追いやられて、働き始めるのも自殺するのも本人の責任において行え、ということだ。


の世界にいてそこから話をすることも当然可能だ。が、どうしてもそれでいいに決まってるじゃないか、とそこにある種の宗教性、信仰性を求めないのだろうな、この人は。religiousってそういうことだし、このあたりの感じはかなり違った風に見えるけど東浩紀さんなんかを思い出させる。ファクターは年齢と東京西部か。


だから、どうしても、

生活水準の切り下げが現実化して、目標を見失った国民が自ら命を絶つ数が増えてなお、具体的にこうすべきという政策さえも見当たらないまま十年近くが経過しようとしている。

と書く。これはつまり、なんにつけてもそれは国が悪いからだ、と表現してしまうことに躊躇のないある種の政治的傾向と似た結論に近接しているように見えて、彼らはそうは立論しない。(その分世間を知ってると私なんかは言いたいものがあるが、これは彼らの主意には関係ない。為念。)


先進国なら普通に存在しているはずの穏当左翼、国内左翼がサヨクに軒をかして母屋を取られたのかそれとも最初っからそうなのかとにかく、平たくいってとても普通に議論に引き込めない状態にあるところの日本では、それら政治勢力にかわって、ここらへんがそれら諸々の心配事を心理的に引き止めているような感じか。


ちなみに、彼ら世代を生み出してはいないアメリカとかカナダの場合、原則は「働かない奴は仕方ないので放っておけという話になる」、これ一本だと言ってもいいんだろうと思う。働きたいのにスキルがない、機会がないという苦情に政府は応じるべきだ、とは政治問題、つまりパブリックの問題だが、若者が抱えている内面の問題にまで立ち入ることが求められているとはあまり信じられていないと言っていいかと思う。たとえば、なんらかの事情で落ち込んで、鬱で働く気力がない云々という相談が持ち込まれたとしたら、すわ治療または改善という処置が想定される1)。ここに躊躇はない。つまりここであたった岩盤がここにおけるreligionだってことだろう。


1) この改善への真っすぐな取り組みを、無条件に正しいと思ってる人ばかりではないにせよ。