紅葉、ああ日本

下にトラックバックしてくださったのは、鉄血人文主義者さん(すごいお名前ですが(^.^;;)。紅葉の写真を見せていただきました。もう、きれいなのなんのって。泣けてくる!

日本のみなさんにとっては、そんなに騒ぐ?という感じの方もいらっしゃるでしょうが、在外のみなさま、いいですよぉ。しかも京都。ニマニマですね。

鉄血さんありがとう!

http://tekketsu.cocolog-nifty.com/tekketsu/2004/11/post_10.html



で、野暮なことを言うと、多分私が今感じているこの精神的なポジションを通過しないと三島由紀夫は解けないということなんだと思うんだなぁ。そこでないところに出て、はじめて、オレはそこのもの以外の何ものでもないことを知る。頭で知るのではなく殆ど物理的と言ってもいいほどにそれ以外でないことを発見してしまう。で、紐帯は言語を含んだ光景、情景なのだと思う。


そう考えれば何もやっかいなものはないのだが三島のやったことははそうは見えないし、それほど愉快そうにもできなかったし、今も多くの支持者の人がいるにせよなにか 韜晦 している人が見えなくもない。なぜか。


私はそれは三島がこの、そこでないところに出る作業を空間軸ではなく時間軸でやっているからではないかなど思ったりする。つまり、空間移動の中でやっている限り、互いの変化は包含されるしされざるを得ない。私の情景は私の10年前の情景と多分異なっている。それは私が変わったからでもあり情景を構成する要素の方も変化している。いわばこの頃の私の好きなアイデアでいえばcross-examineし合うことによって、現実からあまりぶれない装置で「そこ」を思い出す。あるいは内面化する。

一方、時間軸の方は、誰も立ち合えない。彼のアイデア、つまり装置を見抜くことのできる人はそれでもいいが、少なからぬ人にとっては、彼自身の誤解や思い込みを含んだ世界にわざわざ自分を偽装する、心理的にあえて同化しようとする行為によってしか理解あるいは把握できない。こんなことではないのか。だからこの装置をうまく解読してくれる人がいたらそれは何ほどか日本人にとってというか、私って誰問題にとっての福音となるのではないかと思う。と、どうしようもなく日本人であることを思い起しつつ、おやすみなさい。