ブルワース

テレビをつけていたら、なんか面白そうな映画がはじまったので見てしまった。流し見のつもりがホンキになって見た。「ブルワース」。1998年だったそうだが私は、そういえばこの名前と、ウォーレン・ビーティーの名前でどこかで記憶にあったような。Warren Beatty?ウォーレン・ビーティーが、原案、脚本、監督も出演もしてる映画。

googleして日本語での評を見たけど殆どヒットしてなかったらしくて書いてる人も少ないし、そもそも、大変失礼ながらこの映画の持つどうしようもなさが把握できないんだなとしみじみ思ったりもした。


正しい?あらすじはこのへん。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31416/comment.html


上院議員の再選挙を間近に控えたベテラン議員のブルワースが、殆どノイローゼになって、自分を暗殺してくれるよう依頼する。で、死ぬとなったらなんでも来いだ、というか眠れなず食べられずだったのでいわゆるキレた。スピーチで本音をばらまく。黒人からの要求には、なんだったっけかな(忘れてる(^.^)、なんでってそんなのできねーよ、だの、献金しないからなんにもできないみたいなビックリするようなことをばらばら言うかと思えば、映画界の人たちには、青少年への映画の規制はどうなるんですかみたいなことを尋ねられて、あんたらそりゃみんなして映画作るわなぁ〜、なんのためにってそりゃお金か、お金だ、そうだわな〜、でまぁウチのスタッフもバカじゃないからさ俺のスケジュールには必ずユダヤ人が入ってるわけだ、あんたらもだいたいそうだろう?みたいなことを言う。

その上黒人のおねーちゃんたちが気にいっちゃってラップを踊るは、おねーちゃんを追いかけたくなるわで大変。ラップといったって、オヤジが宴会で頭にタオル巻いて踊るようなそういうラップね。あはは。Senetor!と、上院議員のスタッフはどうしていいか気がふれそうになる。どうしてくれんだ、彼の問題もそうだ、でもそれはオレたちのキャリアの問題でもあるんだ、えええええ、と動転に継ぐ動転。


いろいろやってるうちにブルワースは、死にたくないと思いかえして依頼人に電話するのだが、依頼人は卒中で意識不明になって暗殺仕事はキャンセルできない…。


そうこうしながらラップのリズムで動く黒人のあんちゃん、にいちゃんが選挙戦のために集まった紳士淑女の中に乱入したり、ブルワースが、とにかく、黒人のものすごーーーい荒んだ地域に入っていったりといったシーンが変わるがわる登場。お金持ち白人と黒人が混じり合うことって、ホントーに、クラクラするぐらいあり得ないんだというのがただわかる。

で、Beattyはそうやって獲得してしまった、ラップのままの言葉でテレビの討論に出るが、キャスターたちは言葉も出ない。それでも言いまくる。なに言ってやがんだい、そんなこと言ったってあんたは持って生まれてきて、そうだオレなんか上院議員一日何万ドルの世界にいるわけだな、で娘をどこそこの有名高校に通わせて、クリントンと一緒、ゴアんちは別の学校、ワシントンのそこらの公立学校なんかあんた悲劇だぜ etc...。


皮肉な言い方をすればここでは黒人の言葉で話すことがある種のオブラートになっている。それは「ホント」の世界の話じゃないと。白人スタッフは、excuse me, sir式のいわゆる普通の、「ホント」の世界の住人の言葉を要領良く話す。だけど、切れた上院議員につきあってるうちにキレたスタッフもまた、くそったれなんだってこんなことやってやがんだ、ええ!バカなこといってんじゃねーよ、うすらっどっこい(意訳(^.^;;)式の言葉になっていく。

そうして「ホント」の世界の虚構性みたいなのが、「 」のないホントの世界、本音の世界と一瞬接合する。しかし…。

ラストはかなり悲しい。とても悲しい。どうしようもなく。


私は、そういえばそれは確かにそうだったのだと、2001年より前のアメリカを思い出したような気がする。ものすごく分かれてしまって、どうしようもなく世界は分離して、だけどどこかで巡り会ったりわかりあったりすることがあるんだとまだ信じられたのじゃないのか。


と書くと、そうだブッシュが悪いのだとまとめたくなる人がいるかもしれないが、そうじゃない。ブールワースが切れまくりながら言っていたが、民主党共和党だぁ、オレらみんな同じクラブにいるぜ、民主だからできて共和だからできねーなんてあるかよ、おい! なのだ。そしてこの状況に対して、片方はもう関係ないよ、といい、もう片方は、そういう片方を差別的だと言って怒っているだけ。結局誰も実際これをどうしたらいいのかの方向には向かない。


で、私は不特定多数の人びとに向かって本日は罵倒をしたい。やる。

こういう映画を見て、なんだか黒人だけが荒んでるみたいでよくないとか、ニガーとは黒人同士ではOKですが他の人は使わないようにしまようとか、ファックなどとは人前で言ってはいけませんとかコメントしてんじゃねーよ!


そういう訳知り顔で誰かを庇うことで、結局は自分をそこから分離していることに気づけってんだよ、なの。そういうわけで、私はこの 映画 をむしろ巷間言われる 民主党 への あてこすり の方が大きな 映画 であったのではないかと思った。ま、大金持ち批判をするエリートという構造はしばしば指摘されるが、そんな一部のことではなくて、こぎれいな「ポリティカル・コレクトネス」がどれだけ人びとの心の間の垣根を作ることの貢献したか、この映画はそれに抗議しているなと思ったから。それは言ってはいけません、それは失礼です猥雑です、それは差別です、それは相手を傷つけますと山のようなバリアを張ったら人は話をすることができない。一方、どんなに気取った語り口でも、逆にどんなにFワードだらけでも、他人と話そうとしている人、一人と一人で語ろうとしている人の言葉は、たとえどんな音の繋がりでもリズムでも、ちゃんと届く。人が欲しいのは結局これではないの? 


なにかこう、これこそまったくの悪夢、まったくの騙しなのだが、ブッシュは結構待望されていたのではないんだろうか。あの人は弁護士に代表される人びとの言葉は話せないが(それでいいのかMBA持ち、という気もするが)、そこらのオジさんの言葉を話すことが可能なのだ。