ウクライナ:ワレサが出て来ると


ウクライナの政府機能が完全停止
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20041127/mng_____kok_____001.shtml


夜のテレビで見たところではウクライナ人たちはまだまだ頑張っている様子。寒そうだ、ほんとに。見てるとここより寒そう。


で、世界中のどこで何があっても必ずといっていいほどここでも誰かが呼応してるってのがトロントウクライナ人たちはどうしているだろうかと思っていたら、今日はロシア領事館前で声をあげていたらしい。

もうロシアにはコントロールできないのよ、人びとはもう十分にコントロールされたのよ、もうたくさんです、といった声をテレビは拾っていた。


と、これを聞くと、これって北米としては予定通りってことですか、とちょっとこう、何かこう奥歯にものの挟まった言い方しかできない、私。一昨日だったか、ポーランドワレサが元気付けにだか、応援にだか、介入にだか行くという話を聞いたので、さらに、そうですか…と思っていたのだった。


ワレサって、なんつーか、本人はそのつもりで、それはまったく正しくて、それはまったく必要で、それはまったく人びとの声で、それはまったく神は私たちのそばにいて、それはまったく…anything you want。結局のところそれはまったく良かったには良かったのだろうが、しかし、後で目の覚めた人びとがはっと気がついた時には、ちょっと目を伏せる、だってそれってまったくアメリカン・プロデュース?だったから…。という意味でいささか苦々しい人というのがポーランド人たち、あの時盛り上がった人びとの感じらしいのだ。


で、その人がまた出て来るとなるとどうもなぁと思うなという方が無理だろうという話なんだが、そうそうグルジアもあったし。いや、もちろん、それでもなんでもプーチンに、ロシアにコントロールされるよりは余程ましなのだという人びとの声は正しく届くべきなのだろう。それは彼らの選択なのだから。


ただ、その選択の結果がそれほど楽しいものだったのか、それほど性急である必要があったのかというのは、例えば昨年東 ドイツ 時代 と現在との悲喜こもごもを描いた「グッド・バイ・ レーニン 」が ドイツ で、 アメリカ やカナダ の各 コミュニティ でヒットしたように、その後も旧「東欧」(この場合地理区分の名前じゃないから)の映画 が静かに人びとの気を引いていることがぼんやりと現しているだろうと思う。


で、結局ユシチェンコの何がどう良いんだろう? (悪いといっているのではなくて、中身がさっぱりわからないからそう聞きたくなるのだ)


それはともかく、朝日が面白いところをひろっていた。


キエフ騒然 ウクライナ野党勢力、大統領府を包囲
http://www.asahi.com/international/update/1126/011.html

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ヤヌコビッチ支持者からは「ユシチェンコは米国のスパイだ。だから、西側の支持を受けている」という声も上がった。「ユシチェンコ支持者はロシア語で話そうとしない。我々は、ウクライナ語はほとんど話せないのに」と、歴史的に欧州に近いウクライナ西部への不信感をあらわにする東部出身者もいた。

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このへんの人って、ウクライナ語が文学などを介しながら発展というか整備というかされてきた(言語って最初っから近代社会対応に万能の言語ってないから)にしても、政治用語というか政治世界、または共通語はロシア語にはかなわない、またはロシア語じゃないと全土掌握は無理ということなのではなかろうか。多分そんな感じだとさらっと聞いたことがあったのだが朝日によればそうらしい。



あと 宗教 もそうで、 ポーランド との国境が動いていることもあり、知り合いの ポーランド 人によれば、 宗教 分布内に「 カトリック 」とあったらそれはポーランド人かもしれない、なのだそうだ。でもこのへんの人は、今現在の国籍とかそこで発展したなんとかなんてのをぶっちぎりって凄いことを言う傾向が高いので、真偽未定。多分統計取っても真偽未定だと思う。申告もまちまちになりそうだから。


例えば、昔そこはポーランドだった、移住していってもウクライナ人に変わりはない、いやそもそもそこはそうなのだだ、逆に、どんな国籍だろうがそんなことは関係ない!ポーランド 語を話せない ポーランド 人はいない云々という具合で、整理すると、同じ言語で同定している場合と、その場に住んでいることで同定しているばあいが混乱し、かつ、近未来に国境線が動いた経験があるからだろうが、国籍割りを信じていない。つまり、これって「国」民化が未発達だということではないのか、と私は思ったりするまったく余計なお世話だが。*1)


ちなみに、 ポーランド 人と ウクライナ 人はそのまま話せる。私に言わせりゃ、それってだから西 スラブ かなんだかの兄妹語とか「 方言 」のような差だろう、なのだが、そう言うと両方から「but it's different(でも違う)」と即座に言われる。


しかし、ポーランド人の方はかなり国。もちろん近現代においてソ連の一部じゃなかったからだし、もしかしたらポーランドは昔大国だったのだ(ポーランド人が必ず言う)だからかもしれないが、多分それもあるけど、これまでのところではポーランド語と心中しそうな人の出現率が高い(分割されたことによって、これしかないのよ、感が募ったんだろう。かつての大国を誇るよりこの辛抱強さを誉める方がいいと私は思う)のと、なんといっても、国民の9割以上がカトリックだという点で二重にポーランド人として同定できるものがあるってことからであろうと思う。

見た目はまったくあてにならない。本人たちがどー言おうとあてにならない(笑)。バルト海からアドリア海までいろんな人に会ったし会うし、実際行ったこともあるんだが、ある程度のモデルはできても、それ以外の例外が多数あって、国とか言語区分で切った中に同じような姿形の人がぎょーさんおりまっせ状態。


というわけで、ワレサの国はかなり相当に頑丈な「国」だったが、 ウクライナ はそうはいかないのではないのか…。


1) こうやって考えると民族自決の原則ってなんか半端な理論だよなと思う。民族が自覚できるほどに国民化(枠はどういう名前でも)が進む、つまりそれに反対する何モノかがあって「他」と自己の区別がつくまでになんらかの悶着が必要で、民族自決が実効を伴い得るのはその後だ。うまくグルーピングできるためには多少以上の苦労もないとならないし(自覚を高めるために)、では全体でどうやって食ってくかでグループ内での平等意識、秩序観も醸成されなければならない。前者も後者も他者からもたらされるものではない。結構、大変なことだ。単純にいえば域内の秩序観形成なんかが難儀そうだ。人びとはまず自分が自由になるために民族が自決することが大事だ、と教えられるから。しかしそれでは足らないのだ。そして放置すれば、自分に近しいものだけに近い民族割りになって分裂する。結局違った民族なのだというための歴史的事情なんか適当にどこからでも探すことができる。

と、これはつまり、そうやって分裂していてももっと大きな枠があるからいいじゃんか、という帝国による帝国のための論理ってことなのか。半独立みたいな。