原理原則ってあるわけですが

定住外国人
地方参政権付与 日・韓・在日の市民ら連携−−ソウルで24日シンポ

http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/11/17/20041117ddf001040004000c.html

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共同代表の1人、金敬得(キムキョンドク)弁護士(第二東京弁護士会)は「公明党案では歴史的認識を欠き人権上も問題。多民族、多文化共生への一歩として、両国で『善意の競争』を」と話している。

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なんというか、外国系市民たちと一緒になって、国政ではないにせよ日本の自治から考えたら限りなく国がらみになってるんだぜ、の地方の参政権を考えるというセンスが私にはすっかり頭の上を通過してしまって理解できない。


でもって、日本のコリアンの人がからむと必ずといっていいほどここで「多文化、多民族」って書くんだが、なんというか、本家住まいの私に言わせていただけるのなら、なんの意味で使ってますか?みたいな感じだろうか。


多文化、多民族だからこそ、根幹で、全員カナダに対してローヤルだ、ってのがあるから纏っているのがカナダだというのがまずあって、だからこそいわゆるマジョリティもそこ中で、様々な価値観を通してある局面では自分がマイノリティであるかもしれない(例えば人種的にマジョリティでも、俺はゲイであることでマイノリティ、みたいな)、という下位の局面になる。だから発想としては、別に人種とか民族を分けているとは言えないわけね。言うなれば、様々な価値観を認めあおうとしている社会というのが実態でしょう。なんだってありですよ、他人にも社会にも迷惑をかけなければ、と。


でもって、それが成り立つのは、くどいが、全員愛国(この語がいやなら、とにかくカナダのためにならない行動はしないことを意図している、でもいい)で、全員自分を「カナダ人」と呼べる人になるのが原則だから。移民のままのステータスで選挙権を得る運動をアメリカに住む外国人とネットワーク作ってやったらどうなるんだろうかなぁ。想像もつかない。とか言うと必ずどっかでやってる人なんかもいそうな気がしないでもない。ただ、そんなのナンセンスすぎて話になってないと思う。でもって、カナダの場合、普通移民してきて数年たったら「みんな市民権取るでしょ?」とかなりあっさり信じられているという事情もある。その方が外国人を対象にするより、自分の国の法律下での整合性があっていいんだと思うんだな。国家=国民を裏切れませんからね、って言えるし。


あと、多文化が成り立つ一つのキーは、一世はともかく二世になったら、つまりカナダで生まれてカナダのガッコに行ったら絶対ここの人になる、と人びとが堅く信じているというところもあると思う。だから教育を重視してる。とにかくガッコに行けと、一世相手にもいろんな取り込み口が確保されている。そこでみんなカナダの社会にどうやったらadjustできるか、を勉強する。

その民族のコミュニティ内にカナダ的秩序の体現者や導入者が置くことで(例えばソーシャルワーカーなど)、カナダの社会内ですべきことというか守るべき法などが自然に導入される形になっているってところもミソかな。

だから、ぶっちゃけて言えば、いろんな顔した人がいていろんな個性のある人がいて、どうしてもカナダの風土というか言語を含めた習慣には従いたくない人は自分で職業選択の範囲を狭めるんだし、友達もできないんだし、助けてくれる人も少なくなるんだしだがそれでもよければ勝手にしてください、ってな感じだから、限りなく自己選択型の同化案だといっても間違いではないと思う。


あと、その「カナダ人」っていえば、中東系とかインド系の人って伊達にイギリス人に揉まれてないとでもいうのか、そこらへんの権利義務関係にはとても理解がある。結構感心してみてる。余計なことも言わない。インド人なんか小山のように歴史的事情がありそうだが(大英帝国連邦の末だから)こういう場合に言ってる人はいないと言っていい。だって、俺と国家の関係だから。つまり、何がなんでもカナダに保護を求める時、または保護が行き届いてない時には、カナダ人である自分、個人というのを崩さない。もちろん、as a Canadian、Canadianと連呼するたびに、なんでカナダに殆ど住んだことのない上にあたらテロリストに間違われるような行動をしたオマエがカナダ人なんだよ、と憤激を誘うこともあるんだが(二重国籍でこういうことは起きる)、それでも、そう来られたら、誰もがそれはカナダとして正しく対処しなければならないと考えないわけにはいかない。


この契約義務関係への理解があってはじめて多文化が実現されている。


上に書いた人びとには、私にはこういう原理原則に対しての リスペクト がまったく感じられないんだが。くどいが、どこかの国の参政権を得るために外国で集会を開く、というその行為がもはやどうかしているとしか思えない。


例えてみようか。日本人で永住権を持った在米日本人が、アメリカでの地方参政権を得るために、日本で集会を開いてアメリカに「多文化を」「共生を」と言ったと。地方参政権までは考慮に入れてもいいなと思った人でも、この行動の故に、え?だろう。


あと、時期が時期だけにちょっとこのロバート・キム事件はやっぱりもっと知ってもらっていいのじゃないのか。そういう風に話を繋ぎたいわけじゃないが、あまりにもおかしいんだもの。
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20041121#1101006115


蛇足ながら、カナダをマテリアルにして、多民族、多文化を語っている書籍が日本語でも幾つかありますが、全部読んだわけじゃないですけど、翻訳者や著者、出版社が自説に引くために書いてないか?と思えるものがないわけではないと私自身は考えていることを書いておきます。


で、私見では、こうなるのは、著者らに本当に自説を強化するという意図がなくても起こりえる構造的な問題もあると思う。というのは、自分がマイノリティとして入って来ているという意識があまりにも強くて、自分が保護されるためのネタを無意識に探してしまう。

これは、生活者としては正しいと思いますが、 カナダ を伝えるために書くのだとしたら取り去らなければならない 崚 だと私自身は考えます。誰にとっても同じ体験は起こらないわけですし。

また、読者の人も、 カナダ に限らず、この人は自分の身を守るだけのために行なった行動を自分の 感想 として書いているのか、それともそこで行なわれていることを知ろうとしているのかに気を払って読むことが求められると思います。えらそうですみませんが、やっぱりちょっとした読み方のすれ違いが大きな誤解になっていることは多いのではないかと思うんです。