付言

誰にもいちゃもんをつけられたわけではないが先まわりして書いておく。
別に私は日本には悪いことがなかったなどというつもりは毛頭ない。相応に戦争中に起こるバカな真似、非道な真似をやり尽くしたことだろうと思う。が、それをあなた、民族の遺伝子みたいにいつまでも言われる謂れはないと考えるし、私はそこにいない、私はやってないんだから、私がその過去の亡霊の変わりに謝罪するのが本当だとも考えていない。(ま、そうはいっても個別のケースに、I feel soryと思うことはもちろんあるだろう。) 


もう1つ。大文字で書く「自由」のための戦争とか「民主主義」のための戦争といったものは、上述の国連体制以降の新しいトレンドだと私は考える。歴史的にそんな余裕のある戦争などないのじゃないのか? あと、必殺飛び道具たるミサイルと核兵器が存在する以前にあっては、戦争とは、当然に自軍も傷付く行為だったわけだから、冷静に考えれば、そんな理念なんかじゃ人殺しは続かないと言ってみて悪い理由はないだろう(取れるものがあるからやったのだ)。このへんのことをアメリカ人たちが大きく失念しているのは、まぁなんつーか歴史がない上に歴史教育に誤りがあったからだろうと思う。だから今みたいにあっさり、一方で人殺しのための仕事を大量に発注していることをあっさり忘れて、自分のフィールドで真面目に、私は自分の家族を守りたい、といった比喩の延長上で自分たちがやっているとてつもない大きさの戦争を語れるのだ。話が全然あってないってばさ、だ。

でもって、こういうのを宗教戦争はいつでもそうだったじゃないか、と話を継ぐ人はもしかしたら、本人の意図がどこにあれ、自由のための戦争は存在する、を擁護する役割を担っているかもしれない。宗教の影に動いた経済状況を見てなさそうだし。だから、これって多分今現在の理念体制が崩壊するにあたっての修復剤なのかもしれない。ま、ここは思いつきだが。

そういうわけで、戦争は必然ではないのではないか、と考えるための道筋を残すためにも、現今の世界秩序がなぜ発生しているのか考えることは重要だと思う。

自分だけが謝れば話がすむという道徳律は個人として持つ分にはいいようでいて実際には全体の構図を変えないための尽力になっていることもある。世の中は本当に錯誤に満ちている。