国連とは何かを考えるきっかけとなれるか

レポートがあがってくる前になぜ国連演説に注目しているのかの雑感を書いてみようと思う。

私は、これまでは、なんなくてもいいんじゃないの、そんなあんた世界性なしの人びとなんだからさ、できないよきっとなどと考えていた。それは国連本家みたいなカナダとの対比でなおそう考えていた。世界中のどんな出来事にも瞬時に対応できる人がわずか3000万の国民の中にかなり多く存在している(または存在させている、あるい意味でそういう状況を国策にしている。多民族国家とはそういうことだ)国で見た時日本のある種の一人っ子感覚というのは、あんまり他国&多国を相手にもの申すのには適していないだろうと考えていたし、今もこの現状認識は変わらない。


しかしながら、数週間考えた結果として、なること、少なくとも名乗りを挙げることはいいことなのではないのかと今は思っている。

それは、いわゆる「歴史認識」の問題である。といってチャイナで考えられているそれとは著しく異なっている。それは、東京裁判ニュルンベルグ裁判と連動してできあがったところの国際社会の枠組み、その象徴としての国連というのを改めて考え直すきっかけになるのではないのか、と考えるから。これこそ歴史認識の問題であり、それは日本人だけが考え直せばいいなどという話ではまったくない。そしてチャイナも共にといった問題でもない。出来事には相手があるに決まっているし、普通国際社会の出来事は相対売買よろしく一対一の個別のディールなどではない。最後にはそうだとしてもそこに至る道筋に複数の関係者の利害が必ず存在する。

さてしかし、だからこそきっとこの試みはとても険しいものとなるだろう。なぜならこの歴史認識問題に取り組みたくない人びとは、チャイナにではなく、むしろ西欧組に多いからだ。おかしな言い方だが、チャイナの強硬な姿勢は実際には、いわゆる旧連合軍にとっての幸いだ(だからこそ、どんなことがあっても悪いのは日本だという殆ど戯画化された文言や写真が、どこででもなくまず日本について欧米のメディアを飾るのだろう)。

といって私はこれを、日本の正義のためにとか日本の弁明のために必要だといった感じで言っているのではない。歴史の御勉強を非常に多くの人がいじけたり、過度に自己弁護や祖先弁護に走らずに語ることができるためには、多分こうやって、ある1つの枠組みを壊す機会が必要なのだと思うのだ。で、日本が声を挙げることはとりあえずそうなるための1つの礎石になるのではないのか(だから、礎石になってまたぞろ連合軍にぶん殴られる可能性があるからこそ、いわゆる親米派の知識人という人びとは長い間、日本の人びとにポチのバカのと言われても耐えるべしと考えているのではないかのかと、いささか心理的なざらつきがないでもないが、論理的にはそう思えないことはない)。

ま、ひらったく言えば、ブログが活況を呈したり、過去の記録の参照が容易になったり、また特にトロントにいるから尚そう感じるのだろうが、別の地域で別に歴史を習って来た人びとと同じテーブルで語る機会が増えるにつれ、そんなに一方的な悪魔っていないわけで、それなりの事情というのはあっただろうと人びとが考え得るようになる、そういう時代は一部だとしても開けている。多分、これは自由主義と気脈を通じ、この対極は恐らく祖先主義変じての民族主義かもしれない。また、居間でくつろぎながら考えるオレの善悪とは一線を画して経済の動きで世界を追うことが習慣化されたこともこのムーブメントをエンハーンスするかもしれない。

と、以上のようなことを考えるにつれ、国連に出て行く行為は無駄ではないのではないかと考えている。ただ、何度も書くが、これはバクチになる可能性もあるわけだ。今現在世界を差配しているところの旧連合軍+チャイナ(どう考えてもそれは中共のことではなく蒋介石のことだと思うが)を困らせることになるのだから。

なんにせよ、松尾洋右にだけはならないようにしないとな。会議を先に立ってはいかん。全員あきれて帰るともオマエは残れ、これを国是としよう。あはは。