世界の「おフランス」と漂白文学

50歳のマリー・クレール
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20040919#1095626983


毎度お馴染みのfenestraeさんのリアルタイム・おフランス
とわざとこんな書き方をしたのは言うまでもなくfenestraeさんに言っているのではなくて、どうしても日本では「おフランス」が単なるフランスにはなかなかならないから。ちょっとちゃかしたくなる。

でもフランスが「おフランス」なのは日本ばかりでもなく概算でいってケベックをのぞく北米もそう。でも全体としてのカナダことに東部地区は大モントリオールを背負ってるし英仏バイリンガルがいっぱいいるから(ここで但し書きなくバイリンガルと言った場合それは当然のように英仏のことを指す)、幻想度は小さいが、アメリカって、結構「おフランス」だと思う。場合によっては「おドイツ」とか「おイタリア」っていうことさえある。

この間、トロントのギャラリーで、印象派のかなり大きな展示会があった時の新聞に、アメリカからのお客が15%だかそのぐらいあって(お客が署名したり名刺を残したものからZipコードをひろったらしい)、それは通常いわれる7%程度というのよりも大きい。なぜか。記事によれば、誰だってモネを見に行きたい、でもヨーロッパまで行く? アメリカ人は殆どヨーロッパにでかけたがならい人なんだがカナダだったら楽だからだろうってなところだった。

これは結構頷けるものがある。モントリオールは北米の観光地として常に上位、場合によって(というか調査対象によるんだろうが)トップということもあると言われているのもこの話と根は一緒だろうかと思う。私もまた観光客として行くわけだが(トロントでは住民っぽい意識があるけど、私はモントリオールなんか行った日には、あきらかにジモというよりは、ええ日本から、とつい言いたくなる心境になるし向こうも最初っからそういうつもりで接してくる)、そこで見るのは、アメリカ人の団体観光客でそれも非常に白人、いくらか年齢層上と逆に若い人、っていう感じなのが印象的だ。

で、その光景を見て私という異邦人が連想してしまうのは、自分がヨーロッパに行った時に見たアメリカ人観光客。なんつーか、寛いでいるようで寛いでいない感じが濃厚なのが気配からわかったし、自分たちもそう感じていただろうが、はた目でも、場違いだなぁと思わせるのだった。また、どう考えてもお金がないわけでも時間がないわけでもない大の大人が、真面目な顔して「いつか行ってみたいの」と自室にかざったベネチアのゴンドラの写真(悪いが目茶めちゃ通俗的な)をうっとりとして私に見せてくれた時には、いや、私行ったことあります、って言えなかった。彼女の美しいベネチアにはやっぱ私が入ってちゃ可哀想だしなと遠慮した。

だからそれに比べれば、多分モントリオールとかカナダは彼らにしてみればなんぼか楽なのだろうなと思う。とはいえ、「...でもさ、モントリオールなんか行ったらいじめられる、英語で話しかけても答えてくれないって聞いたんだけど...」と、大の大人のアメリカ人がこっそり言っていたこともあったりするところを見ても、なんかこう、うまく自分に合ってない感は北米といってもあるのだろう。日頃ご当地では、カナダなんてさ、あんな貧乏国とか言ってるくせになぁ(笑)。


と、えらく遠回りしたがそれで「マリ・クレール」。
この日本版の創刊号というのを私は長らく丁寧に保管していたのだが、あれはフランスのマリクレールとは全く別のものにすることを最初から意図していたとかなんとか聞いたことがあった。はっきり、完全文芸路線で、ライフ一般(当然社会的で、政治的でありえる主体の行動の総体だね)をものするとは考えられていなかったと思う。私は、なぜこういう判断をしたのかを知りたい。また私が考えるにこうした判断は今に続いていると思う。そして、私が考えるに、多分多くの人が言っている「サブカル」とか場合によっては「カルチャー」なる語が示唆しているのは、まさにこの「漂泊」(fenestraeさんによる)後の世界提示だろうと思う。そしてもっと言えば、それが不確実で不均衡な日本文学のある種の姿のようにも見える。

この傾向が検証されなけなければ、なんつーかサブカルとかの討議というのはどこかおためごかしなんだろうと思う。まぁ、個人的にはこういう枠取りは私はやめようと思うし、そう行為していると自覚している。