兵士と希望と国民国家

兵士はどこへ行った
http://www.asahi.com/column/aic/Tue/d_tan/20040907.html


美濃口 坦さんの朝日のコラム。毎度興味深いことをご指摘になり毎度なるほどと考えさせられることが多い。

米兵の戦死といっても、その米兵の中には米国民ではないいわゆるガイジン、あるいは傭兵が含まれているために、数が少ないのではないのかとの疑問を、米兵戦士ニュースの二つのサイト、国防総省とタンパの米軍中央司令部の数が合ってないことでいわばある種の証拠固めをされている。

そして、それだけではなくどうもアウトソースによって、警備会社で働いた人びとはこの数には含まれない。ベトナム反戦の頃ジョーン・バエズは「花はどこへ行ったか」と歌ったが、それこそ兵士はどこへ行ってしまったのだ(警備会社に勤務する契約員ではなくて)、というわけ。

実際そうなのだが、私はしかしちょっともう少しへんなことを考えてみたくなる。というのは、この事態は、兵士といえば徴兵制であるところのドイツや日本からすれば「兵はいない」だが、そもそもその兵はどうして兵だったのだろうか。

国民だから兵だったのだ。だから、国民でないものを兵にすることを傭兵、ガイジン部隊と呼び区別する。アウトソースの警備会社なるものはこの平面では出現できる余地はない。

が、しかし、国民だから兵だったにせよ、その国民は兵になるより仕方がないから兵だったのではないのだろうか? 最初は経済制度の未整備によるものかもしれないし、次は不況かもしれないし最後には総動員体制によるものとなって、男が「兵になるより仕方がない」と言う割合は増加する。国民皆兵、徴兵と一口に言うが、皆が皆、いやいやながら縄をつけられて引き面れるようにして兵になったけでもなく、同様に、喜びいさんでお国のために兵になったけでもないだろう。実際には、最初は職業選択の余地として仕方がなく国の兵になっていったのではなかろうか。「食えないから」兵学校に行ったといわれる秋山兄妹を思い出せばこの線を誰も否定できないだろう。それは昔だったからで片付くようなものではない。

つまり、言語の話と同じで、国民皆兵、あるいは徴兵による国軍創設というのも、国民国家を形成するにあっってのツールだ。「食えないから」兵になった人もみな、お国のために戦ったことには間違いはないからみんなそういうことになったのだし、兵にならなかったその他の国民も、そうやって死んだ人のことを思えば、そうして成った国をおろそかにはできないという心情が生まれる。


そうなるとベトナム戦争に徴兵を導入したアメリカというのは他にいいようもなく不合理なことをしたことがわかる。職業選択の余地がやまほどある、世界一豊かな国アメリカで徴兵がすんなり受け入れらる余地はない。逆にいえば、反対できる余地がありすぎるほどあった。仕方がないから、国家への忠誠を持ち出すのだろうが、多分それも焼け石に水だっただろう。国家を思うからこそ反対すると言い得る余地があまりにも多く残されていた。国家存亡の危機とは、国内民にとっての経済状態と密接な関係、というか、後者こそ国民が感じ得る唯一の「国家存亡の危機」なるものだろう。明日もあさっても食えないようになるかもしれない、一生貧乏な国(というか手近な共同体程度の認識だろうが)なのかと思えばこそ国民なる人びとは立ち上がる。

別の言い方もできる。すでに「国民」を形成してしまった国にとって、徴兵をもとにした国民国家形成は「余剰」だということだ。

しかしベトナム戦争においてなぜアメリカが徴兵をしたのかには、多分もう1つのファクターが考え得る。それはアメリカ国民の経済状態だけではなくて、傭兵になり得る、喜んで兵役を引き受け得る他国民の数が今よりも少なかったからではないのか? なぜそうなったのかといえば、兵とは国民兵という意識が当時今よりもさらに大きかったこと(WWIIを終えて幾ばくもないのだ)、そしてその延長戦上として、今は貧しいがこの先この国を作るのはオレだといった要するに希望なるものが他国民(相対的、経済的に貧しい地域の)にあったことがもう1つではなかろうかと思う。つまり、国家を形成したいと考える人が多いのなら、よその国のために命をかける人間の数は相対的に下がり得る。

別の言い方をすれば、アメリカに雇ってもらって人殺しの役に立つことが希望か解決かには見えなかったということだ。

ただし、アメリカが永住権、市民権を餌に他国人を兵に組み入れるというのは、この頃大きな問題になっているが、ベトナムの時にもなくはなかったようだ。欧州からの移民の中にはベトナムに参戦することによって永住から市民権取得への道を開いた人もいなくはないようだ。私自身、多分そうであろうという人を知っている(そうなの?、とその老人を前に尋ねられないのが、周囲の人の発言によればそうらしい)。だから、いつでもいることはいるし、さらには、いつでもこれは隠され続けている出来事には違いないんだろうかとも見える。今それが問題になるのは、私たちがそれを容易に知り得るような気がすることと、多分量の問題でもあるのかもしれない。

そう考えてくるとこの他国人の兵士の問題はよろずのことと同じ、地球上の富の格差の問題と同じだといことになる。そして、この兵士たちの動向から考えれば、富の格差の下位に置かれた人びとは、その状況を克服できないかもしれないと考えていることになる。だからこそ、自らが置かれた国の民として行動するよりも、オレかオレの一家の行く先を考えて兵に応じる。つまり、仕事をして永住権が付くのならdealだぜ、と言い得る余地を出来させているのだ。


私が、国境のボーダーが下がることは一義的に正しくて喜ばしいものだとあっさり言う人びとに対して懐疑的で場合によっては悪魔の手先かなどと考えるその理由は、彼らが、先進国間の流通の問題と、developingしている国の問題を全く分けずに語ることに何の疑問も感じていないようだからだ。彼らこそ目先の希望を餌に多くの人びとの大きな希望を根絶やしにしようとしているのではないのかと考えるからだ。