カリオストロが亡くなったとて

種村季弘さんが亡くなったそうだ。
なにかとてもよくわからない感情に困惑する。というのは、なんだかずっと18世紀あたりに住んでいる人を見ていたかのようなそんな距離の取り方をしてきたような気がするのだ。だから、亡くなったといわれてもそれはちょうどカリオストロが亡くなったのだと言われても困るように、時間がまわってしまう、どうしてもまっすぐにならない、そんな感触の中で言うべき言葉も見当たらずただ困惑するばかりだ。


とはいえ実は私は生身の種村氏を見たというよりは時間的に長い間同じ空間にいたことがある。つまり会ったことのある人ではある。もちろん絶対に先生の方ではご記憶にない。私が大学生の時の恩師が友人というのか知人というのかある種仲間っぽい人(そういう意味でこの恩師もまた時間をまわしてくれてしまう人ではある。この人もまたどこに住んでいるのかわからない----現実に住んでいる「そこ」を知っているのにもかかわらず)だったために、ある時種村先生のお宅にお邪魔するという幸せに恵まれたのだった。それこそ「僥倖」だ。

空想の中の著者は、それこそ18世紀西洋の衣装でも纏って高い天井がもたらす陰影の中で誘うような笑みを浮かべているか、はたまた場末の天ぷら屋であたりの気配に耳をそばだてつつも箸を止めぬ他に言いようもないほどの陰うつなオヤジでなければなかったはずなのだが、実際にはそういうことはなくて、なんだか気さくな隣人ご夫婦的ではあった。まったく意味不明の感想だが妙に学校を思い出させるものもあった(この場合の学校はケストナーあたりの学校のことではあるわけで、そうであればそれは私にとって現実のわけはない)。いやしかしもちろんその空間にはあちこちに隙間があって私の目の動きの届かない足元に袖口に何か別の時間が漏れ出していたのやもしれないのだが。

現実の人との遭遇を終えたというのに、それにもかかわらず、その後も私の印象は変わることはなかった。陰影と、高い天井とその果ての「目」に見据えられながら、回ってしまう時間におびえながら、果てしのない追いかけっこに困惑しながら、たとえようもないほどのその居心地をどこかで期待しつつ、本を開くのだった。今でも、あそこで会ったそれは、もしかしたら影だったかもしれないじゃないか、など言い出してしまいたくなる。---これはなんだか愛でさえあるような感慨だ。

時間と位置情報を付けて記憶をディールすることを覚えた時人は近代人となった。しかし、これはやっぱりおまじないほどにも効きはしないのだ。


素に戻って言えば、こんなに私を楽しませてくれた、そして今後もきっとそうあるだろう著者を私は知らない。感謝は---いつか背中に羽が生えた時に言いたい。