パブリックとプレッシャー

中国のことを書こうとしたけどそれどころではない今日の午後。

カナダ期待のハードルの選手が第一ハードルでけつまずいた。いやもう、何十回見たかこの映像。気の毒だよ、そりゃ。でもここまで失敗映像を出して思い思いに解説するというのもどうかしているだろう。


と、トロントスターのオンラインは、

Heartbreak for Felicien
http://www.thestar.com/NASApp/cs/ContentServer?pagename=thestar/Layout/Article_Type1&c=Article&cid=1092391398931&call_pageid=968332188492&col=968793972154


トップページの記事には、コメント欄までついていた。彼女へのプレッシャーがなんか関係があったと思うかという質問。うううん、ないわけないだろう、何を寝ぼけているんだい、と思う私はすでにこういうことを超えた日本選手というのを見ているわけだよなぁとしみじみ思う。つまり、カナダってこういうナショナルチームになることのプレッシャーみたいなのを、あんまり真剣に取り組んだことがなかったんですか?と、私の方はむしろ驚く。そうなのかもしれない。


個人の考え方が非常に自由だし自分で決めたからこうするああするという考え方がとても尊重されるところだから、やってる選手をみんなが応援することもまた基本的には自由なわけで、事実オリンピックにそんなに感心ない人なんかもいた。が、しかし、ナショナリズムを援用しつつ統一感を出すその手段としてこうしたスポーツ選手を使うという、ある意味で効率のいいことをここもやろうとしている節も同時にある。今まではそれで大過なくきたが、さあどうなるんだろうこれから、であるらしく見える。今までと違う人びとになったのか、それともそれ以上に強いナショナルなもののプレシャーなのかそれはちょっとわからないが。


でも、一方で、これがどう評価されるかはわからないけど、メディア露出に関していえば、国営放送のキャスターの冷たさがある意味で救ってると私は思う。いろいろと細かく言ったり聞いたりするんだが、妙に冷静、あるいは妙に意地悪。いかんなく、つまりこういう可能性もあるしこうかもああかもと言い放して、選手の気持になりましょうといった視点を取らない。だからこれ見てたらあんまり興奮できないだろうと思う。これが変わらない限り大過はない気がするんだがどうだろう。こういう冷静な視線の取り方は、好意的に取れる人もいるけど、酷いとか冷たいとか言う人も出て来るんじゃないのかと私は想像する。そんなんじゃダメだ、と。


なんにしても、やっぱ代表選手はたいしたもんだなと思ったのは、このフェリシア選手をこの転倒というとんでもない事態にもかかわらず直後のインタビューを断行した時。

インタビュアーは気づかっていることがわかってそれはそれで好感が持てたのだがフェリシアは、プレッシャーもなにも準備はできていた、アップもとてもよかった、なんでだかわからない、悪無だと言って、なんて言っていいのかわからないを繰り返していた(調子が良すぎてスタートがよすぎ、第一ハードルに近すぎて転倒、という流れといっていいと思う)。

そして、聞かれて答えることで更に悔しくなるものらしく涙が出てきて、見ている私はなんでこんなところを映すのだとハラハラしていたのだが、しかし私という凡人をよそにフェリシアはあっぱれだった。

気遣うインタビュアーがテレビインタビューを締めくくろうとしたところ、ほとんど割りこむように、「応援してくれた人、言葉をかけてくれた人、サポートしてくれた人ありがとう、こんなことになってごめん、私もなんて言っていいかわからないんだけどさ」とさささっと、力を込めて言った。


パブリックという仮想の単位を糧にメディアがプレッシャーをかけるのなら(悪意があろうとなかろうと)、結果がどうあれ、そのプレッシャーを自分の前で自分がハンドルできるものにするもしないののそのメディアを通してパブリックに語りかけられるか否かにあるのかもしれない。たいしたもんだ23歳。