大規模非公開企業の時代
ローマ法王 ヨハネ ・パウロ2世のルルド訪問、大赤字に
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20040818#p1
あてこんでいた信者さんの寄付が集まらなかったらしい。
で、いやいやいいところに目を付けてくださった、fenestraeさんと思って思わず引いているのは、宗教団体の恐さというか、迫力というか、本質というかを支えるのは、まさにこのお金集金の仕組みと運営。
つまり集金したお金の入り口も出口も実に不透明。誰がどんな目的でマネージしているのかを、言ってみれば株主たる個人にはまったくよくわからない。この不可解さは普通に考えれば目をむきたくなるようなものなのに、宗教団体だとOKになる。ええ神のために、で納得していると言い換えてもいいが。で、むしろこうであることを以て宗教団体と呼ぶとでも定義しなおしたらいいのじゃないかとさえ言いたくなるぐらいだ。
また、public companyの逆を行く完全な私企業であるのにもかかわらず、公共のマターにタッチしてくるという特徴もある。
仮に信者さんが100万人が、一年に総計1000円献金したとすると、10億円。本やらその他もろもろの売上でもしこの数字が10000円だと、100億円の売上。
1億人だったら、1兆円。売上以外の純粋献金もある。
この金額あってるのかどうか0が多すぎてわからんが(^.^;;、この金額で一体何をしようとするわけ? それが不明ということの不可解さ、不安感はもっと語られていいものと私は考える。ま、今ってあらゆる局面で、大規模非公開企業の時代って感じなのかもしれないわけだが。
で、たまたまこの間友達と話していた話を思い出す。
先進諸国は、税金を通して政府に分配のディールを預けている。それに対していわゆる発展途上国のうちの特にキリスト教の強い国では、税金を取ったら腹を立てるのに献金に励むのはなんとも思わない人が結構いる。税金を払うかわりに大献金をしたら多分尊ばれる。しかし、冷静に考えれば、つまるところ教会が税金の代わりをしているとも言えそうじゃないか。
しかも問題がある。政府なら、原理的には、その分配はおかしいと抗することもできるし、そうできるからこそそれがパブリックと呼ばれる。一方、教会に入っていったものは、どう使おうと教会の勝手。どうあれソーシャルプログラムに励んでいると人びとはありがたがる。しかし誰に援助されているのかは実は不明。しかしそれは神の思し召しだったりするので多くの場合不問。第一、苦情を言おうにも、神の代理人には頭を垂れることが望まれている。
これは彼らにとって効率的で、そうして公平な話なのだろうか?
とはいえ、私がなんと言おうと、これがオレたちの宗教だ余計なことを言うな、としかられてしまうわけだし、ついにはそれが伝統だなどとなってしまうから、他者は関知できない。
でもってここを指摘することを放棄して、ええいいですね、宗教はとても大事、あなたの言う通り、ええ、それにどんな時でもあなたの伝統を守ること、これはあなたの誇りです・・・といった態度でいわゆる途上国開発支援をしている人を見ると、私は、悪魔の手先だな、あんた、とつい心の中でつぶやきたくなる。
個人>宗教地帯と、宗教>個人地帯で同じプルグラムを実施すればどうなるのか考えてみればわかりそうなものなのに。