オリンピックを見ながら考えること

そこでふと思うわけだが、オリンピックといえばナショナリズムがどうしたと必ず腐さないと気がすまない人がいる。確か鵬甬遒砲?い謄劵奪肇蕁爾領磴鮖?曾个垢泙任發覆??餔卮?箸箸靴突?僂気譴気譴討?燭掘∈?發修Δ任△襪海箸亡岼磴い呂覆ぁ

しかし、それをもってオリンピックを否定的に見ようとしたら、同時にとても大事なものまで殺してしまうことになるのじゃなかろうか。それは、そういう競技が面白くてがんばっちゃう多くの人びとだ。

人生長くなってきてしみじみ思うわけだが、一人の大選手を育てるというのは、まぁ確かに国家が主導してでできないことはなかったけど、しかしそれにもかかわらず、やっぱり好きでやってる(嫌い嫌いもすきのうちとしながらも)人が多い、裾野が広いというのはとっても大きなな要素だと思う。

結局お金をかけるのは、最初と最後の部分で、中間項をになうのは、普通の人びとの自発的な行為なのじゃないかろうか。最初とはある程度のパブリックな施設などと、人が適当に余暇なるものを楽しめる社会体制、そして最後とは、ある特定の人に、おお、これは良い選手だと思ったら手厚い保護を用意する、ってところ。